gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

懐かしい悲しみ

「懐かしい悲しみ」とは9歳の息子陽向がワードで打った最初の日記のタイトルである。

 

そろそろ懐かしい思い出が浮かんでくる年頃だろうか?

そして、その悲しみを多様な視点で受け止めることができるようになった、ということだろうか?

 

陽向のストレートな回路での言葉選びに、ハッとさせられるのは、きっと異国にいる外国人の言葉にも当てはまるだろう。

 

ぼくがアメリカにいる頃、建築課題のプレゼンテーションには多くの人が集まってくれた。こなれていない英語の言葉選びは、きっと今の陽向のようで、だからこそ、新鮮な響きを持って受け止められたのではないか?

 

陽向が発したこのフレーズによって、ぼくの頭には、ぼく自身のたくさんの「懐かしい悲しみ」が去来している。

 

そう、ぼくは空間によって、同じことができると思っている。

 

人の心に、問いを投げかけるのだ。

 

 

ウォール街の人たち

先に紹介した講演の中で、ウォール街の人々を、非人間的な怪物のようにイメージしてしまうことを、講演の感想ページの中に書いたら、次の方が下記のように書いておられた。失礼かもしれないが、そのまま引用させていただく。

 

ぼくへのレスポンスかどうかはわからないが、ありがたい。痛いほどに詩的な文章で、すばらしい。

 

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彼らの問題は『法』によって縛れないことである。合衆国法では彼らを取り締まることができない。逆に彼らは合衆国政府を動かす事ができる。買収・ハニートラップ・暴力・暗◯によって。彼らは合衆国黎明期の法整備される以前に手を回し、乗っ取ることに成功したのだ。完全に法の外に在る彼らが欲望を剥き出しにするのは当たり前で、どうやって「彼らの首に鈴を着けるか」に悩むネズミの心境である。

『今だけカネだけ自分だけ』かなり刹那的な人生だ。水溜りのような人生である(水溜りにも生命は存在する)。行動も稚拙で破壊的だ。相手に配慮する必要がないからだ。完全に守られた世界で采配を振るう絶対主義社会の“暴君”である。絶対主義とは完成した時から崩壊が始まる。内部崩壊である。この時、外からは何も抵抗できないので、残虐非道が尽くされる。何故か?彼らは『自分の存在証明をしなければならない』からである。人間には自分が生きた証が必要なのだ。

日本人なら道路の一部を作り上げたことにも満足できる。汗水流して自分で作り上げたものだからだ。それが多くの人に役立つことで満足するし、作り上げることが如何に大変な労力かもよくわかる。

しかし彼らは直接社会に働きかけることはしない。「直接社会に働きかけない」という不文律が有るからだ(直接働きかけると“ゲーム”にならない)。彼らの存在は実態社会と乖離があるため、何もしなければその存在は『無に等しい』。だから“自己の存在証明”のためにはセンセーショナルな事件を起こさざるを得ない。しかも儚い人生は瞬く間に過ぎ去って行くので、急がなければならない。彼らは常に焦燥感の中に居る。『何時乾くか分からない水溜りで泥水を啜って足掻いている』のである。

彼らは“稚拙”であることを恥じている。先代までは大衆を良く理解し操り、狡猾で細心“悪魔”と呼ばれた。そして完成した「絶対主義社会」。しかし彼らは自らを“神”と称した。そして彼らは“神”であることを証明し続けなければならない。“神”の性格は単純で短絡的。その言葉に彼らの焦りを感じる。

++++++

 

「自己の存在証明」のために残虐非道をつくすとすれば、過去の大戦における日本軍の残虐非道が「立場主義」から来るのとは、真逆である。「仕方がなかった」という言い訳や良心の呵責はそこには皆無だということになる。

 

他人の痛みを感じられないのは、すべてをゲームの中の出来事だとしか感じられないからだというのはわかる。

 

すべてはゲームだ、という一握りの人々によって、世界は破壊されていくのだろうか?

 

本当にそんな虚しい特権がこの世にありうるのか?

 

 

 

 

映画 ミッシング

1982年。アメリカ。

 

1973年のチリ・クーデターを背景として、在チリ・反体制派のアメリカ人がアメリカ大使館に見殺しにされた、もしくは、殺害を促された実話を追う。

 

アメリカが世界中で仕掛けてきた戦争・内戦・紛争がどれだけの人々を悲惨な目にあわせてきたか。

 

どれも理由は、行きつくところ、アメリカの金欲である。悪名高いピノチェト軍事政権を誕生させることに、人道的に意味はないだろう。

 

今も延々と続いているアメリカの金欲からくる世界の破壊をどこで食い止めることができるか。

 

それだけでバラ色の未来が待っているわけではないだろうが、それは明るい未来への大きな一歩だ。

 

 

社会と生活

これまで何度もドラマで見てきたセリフとして、

「自分の家庭も幸せにできない人が、社会を幸せにできるわけないじゃない!」

というものがある。

 

たぶん、このセリフを吐く人の発想に問題があるのだと思う。

 

「社会を幸せにできない人が、自分の家庭を幸せにできるわけないじゃない!」

が正しいと信じて生きる人を増やさないと、本当の幸せは遠いままだ。

 

 

 

 

ウォール街から見た世界

堤未果氏の講演を動画で見た。

 

ウォール街にいる、未来のことを考えないで大金を手にしようと考える人たちが世界を破壊しようとしている。お金の流れを注視して、お金に変えられないものを決して失わないように、地に足の着いた活動を未来のためにやっていこう。

 

というのが趣旨だ。

 

投資家たちに確実な利益をもたらすために、世界の衣食住を牛耳るべく、他国の資源を略奪したり、研究機関を破壊したり、法律を変えていったりしているのが、米国だ、と。

 

そのような構図を具体例とともにシンプルに伝えてくれることは、明確な視点を持つことにつながった。感謝したい。

 

れいわ新選組の主張とも重なっているように感じるが、れいわの安富歩氏が、国の暴走は「立場主義」というある意味で至極人間的なものから生じることを述べていて、各人が克服すべきものとして提示しているのに比べ、ウォール街の人々は非人間的な怪物のように述べられていることが気になる。

 

非人間的な怪物であれば、テロの標的になるより他にない。

 

 

 

 

食品と農薬

いつも食べているパンにグリホサートという農薬が検出されたという。

 

量は、1日の許容値の100分の1にも満たないようで、別に問題なさそうだが、元々、この基準自体もどのくらい信用していいかわからない。

 

パブリックに対する疑念を抱き始めると、真面目な人であるほど生きにくい世の中になる。まあ、輸入小麦がダメとなると、食べられるものはだいぶ限られてくるだろう。

 

多少のグレーなところを許容する方が、今を生きやすいのは確かだが、さて遺伝子に対して悪い影響はないのか、などと考えると、自分が食べるのと、子供が食べるのとは意味が違ってくるからやっかいだ。歴史的にも、さんざん消費することを勧めておいて、あれはやばいものでした、と事後的に発表するのがパブリックだ、と思っておいた方がよい。まあ、悪い影響はありうる。

 

汚れに対する概念として、例えばティッシュ一枚にほんの一点の汚れがついていれば、汚れたティッシュと見做されてしまう、ということがある。

 

汚れの物理的量は問題にならない。ゼロか100かの問題になってしまう。

 

これは汚れという概念に当てはまる特徴だと考えていたが、食べ物にも同じことが当てはまる。

 

パンに有害な農薬が含まれている、と言われたら、農薬の量は関係ないのだ。

 

今回名指しで発表された商品は明らかに大打撃を受けるだろう。

 

先に言ったように、自分はOKだけど、他人には食べさせたくないのが、本音だ。

 

それでもとりあえず食べるしかない。できるかぎり、でやっていく。

 

 

廃墟の微笑み

廃墟が静かに微笑んでいるのは、

つくられた関係を失って、自然との関係に戻ったからだ

 

自然の一部であると気づくことは、なにか口元を緩ませるところがある

 

この季節は、日が射す時間が少しだけあるんだ

 

それが待ち遠しい

 

待ち遠しい気持ちを幸せに感じるのは

どのくらいぶりだろう

 

 

スタッフたちの夢

スタッフが望んでいる未来について、思いを馳せてみる。

 

鉄を材料とした空間造作は自分の体よりも大きなものをつくることも多いが、本当は軽くて手の込んだものをじっくりとつくるのが好き、というスタッフもいる。

 

そんな彼らが重くて危険を伴う大きなものをつくり続けているのは、さぞ大変だろう。

 

改めて感謝している。

 

今後も、重機を使わずにできるギリギリのものをつくり続けていくのか?

 

考えていかなければならない。

 

 

 

 

 

日本軍兵士はなぜ強かったか

タイトルは、上島嘉郎という方のメールマガジンからだ。

 

第二次世界大戦において緒戦は日本軍は米英を圧倒した。日本軍が強かったのは、上層部の作戦は抽象的で粗雑だったが、「戦闘部隊の練達した戦闘技量、瞬時における迅速果敢な行動展開」が優れていたからだ、というのが答えとして書いてある。

 

会社に置き換えて考えてみる。

 

会社がうまくいっていない間は、まさにぼくという上層部の作戦が抽象的で粗雑なために、うまくいかない、と言われても仕方がないだろう。第一線の制作技量がとても優れていたから、なんとか生き永らえた、と言うべきだ。

 

だが、「現場を知らないエリートが無謀な作戦を立て、第一線からの作戦変更は大本営ではほとんど拒否される」という愚は生じない。

 

なぜなら、ぼく自身は、全体の構想を描き、たくさんの人を使って、その通りに事を遂行していく、という能力には欠けている、という自覚があるからだ。人はあまりにも多様なので、ぼくの考えで全体を動かすことに無理があるのだ。

 

全体の構想、統率が得意だ、という人は確かにいるが、ぼくはその下に入りたいと思わない。

 

それでは、ぼくの立場で必要なことはなにか?スタッフの立場で必要なことはなにか?

 

立場主義を批判する本を読んだ後では、このような問題の立て方も気を付けなければならない、という気持ちになる。

 

立場とは、つまり「括弧入れだ」と考えればよいのではないか?シミュレーションの道具だ、と。

 

「らしさ」もそうだ。括弧は、いつでも外せるものでなければならない。

 

ぼくが会社を興して、彼らがそこへ入ってきたのだから、もちろんぼくが何をしたくてこの会社をやっているか、を知ってもらうのは大事だ。

 

同時に、ぼくも制作者の第一線としてぼくの能力を生かし続けることがなによりも大切だ。

 

結局は、制作者としての自分に、この括弧入れ外しの作業が深くかかわっていることに気づく。

 

 

 

 

映画 アメリカンスナイパー

2014年。クリント・イーストウッド監督。

 

イラク戦争で160人を狙撃した実在の人物クリス・カイルの生涯。

 

対テロリストの戦いの現場をイメージさせてくれる映画だ。テロリストを一掃することなどできないし、それが弱い国の人々の希望だ。

 

アメリカがベトナム以来、延々と繰り返してきたこのような戦争には何の意味があるのか?

 

PTSDという病はいつまで世界に存在し続けるのか?

 

いつも導き出されるのは、テロリストも兵士もいない世の中にするために、世界から貧困をなくしていく努力を、ぼくらは全力で進めなければならない、というあたりまえの答えだけだ。

 

そう、中村哲さんのように。

 

暴力がなくなるためには、それしかない。

 

 

泰阜村

やすおかむら、と読む。長野県の山村。

 

1930年代に、満洲へ半ば強制的に移民されられた「満蒙開拓青少年義勇軍」。

 

泰阜村からも1144人が送られた。農民として、そして、ソ連が攻めてきたときの人間の盾として。実際に、終戦間近にソ連が攻めてきたときには、武器弾薬もなく、男たちはそのままソ連へ抑留されて、多くが命を落とした。

 

残された女・子供には、逃げるように命令が来る。これも、歩いて逃げるしかない中、途中で日本は敗戦。それを知らされもせず、支配されていた中国人に襲撃されたりしながら、なんとか街にたどり着くと、関東軍が迎えてくれるのではなく、ソ連軍に捕まり収容所へ。そこでも多くが命を落とす。

 

その中で、中国人の家庭に引き取られた日本人の子供たちが、残留孤児。

 

終戦時、満洲にいた150万人の日本人。多くは1948年までに帰国したが、中国の家庭を離れられなかった人たちなどは帰国できなかった。

 

中国との国交が正常化されてからも、国は帰国支援に積極的ではなく、泰阜村独自で帰国支援を進め、70人以上が帰国。

 

「最後の帰国は2009年。終戦時9歳だった子供は、73歳になっていました。」(「満洲暴走 隠された構造」安富歩」

 

なにげなく通り過ぎてしまう山村の風景にも、こんな歴史を背景とした生活がある。

 

 

立場主義の起源

(「満洲暴走 隠された構造」安富歩)

 

「家」を守るために、戦争にいく。徴兵されて死んでも、そのことで子孫は優遇されていく。

 

室町時代から江戸時代までは、それまでの「氏」に変わって、「家」の時代だという。

 

だが、明治から昭和にかけて、家が崩壊していく。その本質は、徴兵制で多くの兵を集めるために、「軍役の負担が家単位から個人単位になった」からだという。

 

では、なんのために戦争へいくのか?家ではなく、別のイデオロギー装置が必要になって、お国のために死ぬ、というイデオロギーがつくられた。

 

安富歩は、この「家」の代わりに、個人主義ではなく「立場」というものが析出されてきたのではないか、と考えている。

 

「自分は本当はこう思うけれど、この立場ではどうにもならない」というセリフが臆面もなく飛び交う社会で、苛酷な「とりかえのきく世界」はつくられている。

 

 

 

 

満州の歴史

森に覆われた大地が、20年や30年のうちに一面の大豆畑に変えられた。

 

大日本帝国がこれを満州で始めた。

 

今、アマゾンの森で起こっていることと同じだ。

 

20世紀に始まったこの変化は、現在に至っても止まらず、地球の自然を破壊し続けている。

 

満州の歴史は、グローバルに拡大した資本主義の起源とも言える。

 

現在も、そのときと同じ論理によって、世界は悪循環を止めることができずにいる。

 

何が根本的な問題なのか?

 

満州暴走 隠された構造」の著者・安富歩氏は、日本の「立場主義」にそれを見出している。

 

「立場主義」とは、ぼくが書いている「とりかえのきく世界」をつくり出しているものでもある。人はその中では、機械の部品にすぎないのだ。

 

そんなこと、やらなければよいのだ。と思うのに必死でやっているのを、ぼくたちはどうやったら止めることができるか?

 

もちろん、日本だけの問題ではない。