フンボルトペンギンに、ショーの技を教えている下田水族館の飼育員の仕事に興味を持った。
鳥類にも高度な芸を教えられるのか?
技は未完成だったが、まだ見たことがないものだ。
それだけにワクワクするものを感じ、大いに満足した。
南伊豆には、爬虫類の動物園izooとカエルの動物園kawazooがある。
どちらもほとんど動かない動物を見ることになるが、眠くなることはない。
火星人など、宇宙人を描かれるときは、爬虫類的な外観をしていることが多い。
人間がもっとも人間から遠い生き物を思い浮かべるとき、浮かぶのは爬虫類などの姿なのだろう。つまり、外部的なイメージなのだ。
やはり哺乳類には、近さや温かさを感じるのだ。
だが、その生物たちの持つ「遠さ」や「冷たさ」が心地よいときがある。
蛇などをペットとして飼う人は、そこに魅力を感じているのだろう。
だが、外部的なイメージといっても、事前に思い浮かべられる限りは、やはり内部に過ぎない。
その点、カエルの姿は事前のイメージを超えるものも多く、真に外部的だったようだ。
1867年(慶応3年)創業の下田・金谷旅館の千人風呂に入ってきた。
プールのように深くて縦長の湯舟が木でつくられており、薄暗い空間は湯煙のために遠くはかすんで見えない。
元来は混浴だそうで、女湯とは深い水路で結ばれていて、今も女湯から湯につかったまま、この風呂までやってくる女性もいる。
かつての日本には、こんな趣のある空間がたくさんあったのだろう。
古さや暗さが与えてくれるやすらぎ。
ほとんど衝動と呼んでもいいような強い気持ちで知を得ようとした留学時代。
30歳前後でアメリカで建築を学んだぼくは、そのときにできることは全部やった、という自負がある。
そんな時間を過ごすことができた後で、日本での大学生時代を振り返ると、自分に合った学部をどうしてもっと真剣に探さなかったのだろう、と不思議に思う。
世間的に評価の高い大学に入ることに意味がなかったとは言わない。だが、そこで学ぶ内容に対してほとんど関心を持てなかったことは愚かとしか言えない。
大学に行きたいのであれば、高校までにやるべきことは、何を学びたいか、を徹底的に考えることだろう。
とはいえ、大学時代の価値は学問だけではない。休みの度に海外を一人旅したことや、夜毎バーに通ったことが、むしろ今の自分の血肉となっている。
無駄な時間を過ごしていたわけでは決してない。あの頃はまた別の衝動があったのだろう。
昨日から、伊豆の白浜に来ている。
初日は雲に隠れているが、荘厳な斜光の風景をつくり出し、時間を忘れてしまった。
今年はどこまで近づけるのか?
いつもそう思うが、ぼくらが自分たちだけで今の状況をつくれるわけではない
今、生きていられることにひたすら感謝するしかない
引き付けあうもの、遠ざけるもの、・・・どこかで力が働いている
どうか、生きたい、という心の本然に触れるものとの出会いが、今年同様、来年もありますように
切実にぼくは届いているか
走るのが好きなのは、それがすぐに自分の限界に到達できるからだ
切実なところにある人は、その状態の自分につりあうものが何もないことに深いため息をつく
そして、深く掘られた穴に入りたい、と思う
どこかへ連れて行ってくれる、深い穴に
自分という気まぐれな怪物を解放する
生きている、という実感を得る
先へ進む
どこまでも
世界にたくさん散らばっている「汚しうる美」を集めて、新しい空間をつくり始める。
今やろうとしていることの本質は何か、ということを考えて、そこから空間をつくっていくことが大事だと思う。
「でも、本質って移り変わっていくものじゃないですか?」と問われる。
そう、移り変わっていく。
でも、先を見通そうとするときに、現時点での本質ってあると思う。
それは、ぼくが話を伺って、これだ!って思うことに過ぎないから、何か勘違いしているかもしれない。
でも、ぼくには、それが本質に見えている。
賛成を得られないかもしれないけれど、そこには『本気』で本質を見ようとしたことは、ぼくがやったことなので、ぼくは信じられる。
クライアントや周りの人も『本気』であることを信じてくれれば、そこから空間づくりを始めることには、意味があるとぼくには思える。
もっと言えば、本質の内容よりも向き合う姿勢が大事なんじゃないか、と思う。
その内容が後になって、もう大事じゃない、ってこともあるかもしれない。
でも、そのときには既に時間が作用してくれて、空間に次の本質が表れているんだと思う。
逃げるつもりはないが、本気で考えて変えることと、時間という自然が勝手に変えていってくれることは、スタートすればその後ずっと相乗効果を生み出していくのではないか。
今年の陽向へのプレゼントは、ギラファノコギリクワガタ。
世界最長のクワガタだ。
先月羽化したばかりの12センチくらいのオスと5センチくらいのメスのつがいが届いた。
美しいかたちをしている。オスの姿にはほれぼれする。
陽向も興奮気味だ。
が、寒いから、あまり動かない。専用のヒーターも必要だ。
世話はもう陽向に任せよう。
カブトムシと比べるとクワガタは少食だから、エサは2~3日おきでも大丈夫だから。
ぼくが30数年前にタイの東北部の村を訪ねたとき、そこには文明の利器は何もなかったが、貧困に喘いでいるわけでもなかった。
若者にはバンコクなどの都会へ出ている者もいるが、基本的には農業をして自給自足で暮らしている村だった。(村にお金を使える場所がない。)
収穫が不安定であれば飢饉も起こるだろうが、安定していれば幸せに人生を全うできるだろう。
その場所が水が豊富で、肥沃で温暖な土地であれば、そこで生きていけるのだ。
つまり自然に恵まれているかどうかで、自給自足で生きていけるかどうかが決まる。
そうでなければ、世界経済に組み込まれて、外の食べ物をモノと交換しながら生きていくことになる。
日本は自然にとても恵まれているにもかかわらず、食料の自給率が低い。
子供たちが飢えている国から見れば、もったいない、と嘆かれるだろう。
ぼくらがそれを放置しているのは、単に切迫感がないからだ。
2017年の 世界穀物生産量は年間26億トンで、76億人の人口で分けると一人340キロで、一人が必要とする穀物量160キロの2倍を超えている。
しかし、飢餓で多くの人が死んでいく現状は、世界人口の20%に満たない先進国が穀物量の大半を消費しているからだ。そのうえ、そのうちの30%を肉を食べるために家畜の飼料として使っているらしい。また、日本では輸入した食料品の3分の1が賞味期限切れなどで捨てられているそうだ。
飢餓が発生している国では、貧しさが原因で労働力を得るために子供をたくさん産む。衛生環境は悪いままだ。
そんな構図で飢える子供はどんどん増えていく。
ぼくがタイ、コンケーンの近くの村で灌漑の水溜をつくるコンケーン大学の学生たちのボランティアに参加したのはもう30年以上も前のことだが、この構図は変わっていない。
そのときも村人たちにコンドームの使い方などの教育をしていたが、富が偏る構図を変えない限り、悪循環は変わらない。
国境をなくせば、変わっていくのか?それとも、国境はこのままで変えられるのか?