gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ウォール街の人たち

先に紹介した講演の中で、ウォール街の人々を、非人間的な怪物のようにイメージしてしまうことを、講演の感想ページの中に書いたら、次の方が下記のように書いておられた。失礼かもしれないが、そのまま引用させていただく。

 

ぼくへのレスポンスかどうかはわからないが、ありがたい。痛いほどに詩的な文章で、すばらしい。

 

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彼らの問題は『法』によって縛れないことである。合衆国法では彼らを取り締まることができない。逆に彼らは合衆国政府を動かす事ができる。買収・ハニートラップ・暴力・暗◯によって。彼らは合衆国黎明期の法整備される以前に手を回し、乗っ取ることに成功したのだ。完全に法の外に在る彼らが欲望を剥き出しにするのは当たり前で、どうやって「彼らの首に鈴を着けるか」に悩むネズミの心境である。

『今だけカネだけ自分だけ』かなり刹那的な人生だ。水溜りのような人生である(水溜りにも生命は存在する)。行動も稚拙で破壊的だ。相手に配慮する必要がないからだ。完全に守られた世界で采配を振るう絶対主義社会の“暴君”である。絶対主義とは完成した時から崩壊が始まる。内部崩壊である。この時、外からは何も抵抗できないので、残虐非道が尽くされる。何故か?彼らは『自分の存在証明をしなければならない』からである。人間には自分が生きた証が必要なのだ。

日本人なら道路の一部を作り上げたことにも満足できる。汗水流して自分で作り上げたものだからだ。それが多くの人に役立つことで満足するし、作り上げることが如何に大変な労力かもよくわかる。

しかし彼らは直接社会に働きかけることはしない。「直接社会に働きかけない」という不文律が有るからだ(直接働きかけると“ゲーム”にならない)。彼らの存在は実態社会と乖離があるため、何もしなければその存在は『無に等しい』。だから“自己の存在証明”のためにはセンセーショナルな事件を起こさざるを得ない。しかも儚い人生は瞬く間に過ぎ去って行くので、急がなければならない。彼らは常に焦燥感の中に居る。『何時乾くか分からない水溜りで泥水を啜って足掻いている』のである。

彼らは“稚拙”であることを恥じている。先代までは大衆を良く理解し操り、狡猾で細心“悪魔”と呼ばれた。そして完成した「絶対主義社会」。しかし彼らは自らを“神”と称した。そして彼らは“神”であることを証明し続けなければならない。“神”の性格は単純で短絡的。その言葉に彼らの焦りを感じる。

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「自己の存在証明」のために残虐非道をつくすとすれば、過去の大戦における日本軍の残虐非道が「立場主義」から来るのとは、真逆である。「仕方がなかった」という言い訳や良心の呵責はそこには皆無だということになる。

 

他人の痛みを感じられないのは、すべてをゲームの中の出来事だとしか感じられないからだというのはわかる。

 

すべてはゲームだ、という一握りの人々によって、世界は破壊されていくのだろうか?

 

本当にそんな虚しい特権がこの世にありうるのか?