やすおかむら、と読む。長野県の山村。
1930年代に、満洲へ半ば強制的に移民されられた「満蒙開拓青少年義勇軍」。
泰阜村からも1144人が送られた。農民として、そして、ソ連が攻めてきたときの人間の盾として。実際に、終戦間近にソ連が攻めてきたときには、武器弾薬もなく、男たちはそのままソ連へ抑留されて、多くが命を落とした。
残された女・子供には、逃げるように命令が来る。これも、歩いて逃げるしかない中、途中で日本は敗戦。それを知らされもせず、支配されていた中国人に襲撃されたりしながら、なんとか街にたどり着くと、関東軍が迎えてくれるのではなく、ソ連軍に捕まり収容所へ。そこでも多くが命を落とす。
その中で、中国人の家庭に引き取られた日本人の子供たちが、残留孤児。
終戦時、満洲にいた150万人の日本人。多くは1948年までに帰国したが、中国の家庭を離れられなかった人たちなどは帰国できなかった。
中国との国交が正常化されてからも、国は帰国支援に積極的ではなく、泰阜村独自で帰国支援を進め、70人以上が帰国。
「最後の帰国は2009年。終戦時9歳だった子供は、73歳になっていました。」(「満洲暴走 隠された構造」安富歩」
なにげなく通り過ぎてしまう山村の風景にも、こんな歴史を背景とした生活がある。