gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 ブラックスワン

2011年。ナタリー・ポートマン

 

バレエで一流に上り詰めるには、こんなプロセスが必要なんだよ、という映画だとしたら、まず子供にバレエなど教えようとは思わないだろう。

 

ナタリー・ポートマン演じるニナのいつも無防備な様子に、最後までずっとハラハラさせられる。

 

観終わった後も、結局これでよかったんだろうか、という疑問が残る。

 

本人は、これで母親を振り切ることができた、ということかもしれない。

 

だが、そうやって得た主役の座は、ベスのようにいつかは剥ぎ取られてしまう日が来る。

 

おそらくは10年も主役を張ってきたベスがその座を奪われたとき、なぜあれほどみじめな姿を晒さなければならなかったのか?

 

ベスの描かれ方次第で、この映画の印象は違っただろう。

 

ニナの成功を祝う気持ちには全くなれない。

 

 

共感を伝える

SOTOCHIKUにおいてGFは、まず捨てられる前の金銭的価値のない素材に向き合う。

そして、GFの感性と技術によって新しい造作を組み合わせて手を加えることにより、素材が元々持っているエネルギーを引き出し、今までは実現できなかった質感や形状を取り込んだ感度の高い空間づくりを行う。

その結果として、素材は、金銭的価値の高いものに変換されている。

 

捨てられる前の素材とは、どれも社会からは見向きもされなかったものである。

そのひとつひとつと丁寧に向き合い、その魅力を空間へ最大限に生かす行為は、社会的弱者のひとりひとりに向き合って、その魅力を最大限に引き出す行為に似ている。

 

また、この事業において、その素材を社会的弱者の救済に目を向けるNPOへの寄付というかたちで集めることが重要である。

このことによってGFが、資本主義社会がつくり出してきた弱者へ視線が向いている人々に共感していることを伝えていく。

 

このように空間づくりの中に新しい価値観を挿入することで、ぼくらが共感するところで繋がっていく新たな世界へ踏み込んでいきたい。

 

SOTOCHIKUとは、その扉だ。

その輪に加わるべきか

ぼくらはいつも外にある輪に交わることを避けてきた。

 

それは、輪の中に入るということが、自分を不自由にすることになるのを恐れたからだ。

 

だが、今、深く共感できる人たちが現れてきた。

 

その人たちは考えや行動をYouTubeで配信している。

 

共感はこちら側がしているのは実感できるが、共感されようと願っても事前に約束できるものではない。

 

ゆえに、共感は求めるべきものではない。それを第一義にすると、時代を進めるような問いを提示できない。

 

求めるべきはいつも多様性である。共感を得られたとしたら、その結果に過ぎない。

 

 

一向一揆

ぼくの家の宗教は、浄土真宗本願寺派らしい。詳しくは知らない。日本には、そういう人が多いだろう。

 

歴史の中で信長をして苦しめたという浄土真宗本願寺派による一向一揆は時の彼方の話で現代からは想像もつかない。

 

日本人が宗教から本質的に離れたのは、信長が最終決戦で石山本願寺を支配して以来と言われる。

 

その後は、ほとんどの人にとっては、飾りとしての宗教になった。

 

宗教である必要はないが、ひとりひとりの心が世界を動かす時代は遠い彼方にあるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

資本主義に取り込まれないために

SOTOCHIKUは、さまざまな場所から寄付によって集まる「これから捨てられるモノたち=SOTOCHIKU素材」のプラットフォームである。

 

グリッドフレーム内ではこれらを素材とした空間に化けていくのであるが、集まった素材の数が多くなればなるほど、きっともっと多様な使われ方をするようになると思う。

 

「捨てられるモノは、資本主義的には価値がゼロである。つまり、ゼロ円である。これに、なんらかの造作が組み合わさることによって、素材としての価値が出てくる。」

 

実は、このことが重要で、もしこれがゼロでないとすれば、横取りを狙うハゲタカが素材を狙ってくるのを避けられない。

 

今後、このプラットフォームを「生産性で価値を測られない」モノの放つエネルギーを発見する、創造的な視点を喚起する場として機能させていきたい。

 

そのために、創造力のない人たちからこの場を守ることが必要だ。

 

人から心を奪い取る資本主義の中に取り込まれないために。

 

 

 

 

 

映画 鬼滅の刃 無限列車編

大ヒット中のこの映画を、家族3人で観た。

 

この映画での鬼という想像上の生き物の特徴は、無限性(永遠性)だ。異形だが、醜いとも言い切れない。どこまでも醜くもなれるし、どこまでも美しくもなれる。可能性の幅が広い。どこを切っても、傷は再生する。そして、修行すれば、どこまでも強くなれる。

 

鬼の存在によって人間の有限性が際立たせられ、人間は最後は鬼に敗れながらも「有限だから美しい」と言い放つ。そして、鬼に対して「逃げるな!」と叫ぶ。

 

それは、「無限性へ逃げるな」ということだ。「有限性の中で戦え」ということだ。無限性の持ち主が、有限性の中に生きるものに勝ったとして、何を誇れるものがあろうか。

 

鬼に残された唯一の有限性は、その首にある。首を切断されれば、鬼は未来永劫、消滅する。屍すら残らない。

 

その有限性がなければ、鬼滅隊の存在意義はない。いくら切っても再生する相手では、闘う意味がない。

 

ここで疑問が生ずる。

 

鬼になれば首以外は、無限性を獲得できるのであれば、なぜ有限な人間でいようとするのか?

 

物語の中でも、最強の鬼が最強の人間を鬼の世界へ来ないか、と何度も誘う。

 

問いの答えは上述の「有限だから美しい」である。

 

だが、本当だろうか?

 

有限な人間は、無限を手に入れようと躍起になって生きていないか?

 

おそらく日本映画で史上最大のヒット作となるこの映画に、この問いかけを見出し、真剣に向き合う人間が数多くあったとしたら、日本はよくなるだろう。

 

そんな可能性は、今のところ、れいわ新選組の支持率くらいの確率しか見いだせないとしても。

 

ただ、陽向も含めて、未来をつくる子供たちには期待できるのかもしれない。

 

 

しげちゃんの願い

1990年代後半、グリッドフレームを立ち上げの頃に、工房絵という知的障碍者がアートを描く施設で展示のお手伝いやデスクルームの制作をさせていただいた。

 

施設の利用者の一人にしげちゃんと呼ばれる、ガタイのいい角刈りのおっちゃん風の若者がいて、通りを歩く女の子に名刺を配っては、「しげちゃんと呼んでください」と話しかけるのを日課としていた。彼の知的障碍は軽い方のように見えた。普通に会話が進む人だ。ちょうど、健常者と障碍者の境界上にいる人だと思う。

 

その彼が警察に補導されることが頻繁に起こっていたらしい。女の子に無視されて大声を出してしまったり、そんな類のトラブルだと聞く。

 

そんなしげちゃんを映したドキュメンタリー映画が当時撮られた。「まひるのほし」という。その中で彼は、優しく対応されたことのある女性へ、毎日手紙を書いた。それが、工房絵で彼がつくったアートだ。手紙は、几帳面な幾何学的な字体で書かれており、毎回同じ大きさの紙にほぼ同じ大きさの字で書かれているのに驚く。その丁寧さに表れる彼の真摯な思いの膨大な集積には心打たれるものがある。

 

しげちゃんの願いは、憧れの若い女の子たちに「しげちゃん」と呼んでもらうことだった。女性の水着に興味を持ち、種類を書き連ねながらも、願いはただそれだけだった。

 

突然話しかけられた人には、しげちゃんのことを怖いと思った人もいるだろう。だが、自分を客観視する力が弱いと思われる人の願いが、自分の名前を呼んでもらうことだけだという事実は、ぼくに深い安堵と温かな気持ちを与えてくれる。人間同士は元来もっと信じ合ってよいのだ、と。

 

そんな大事なことを気づかせる力を持っているのが、知的障碍者と呼ばれる人たちだ。その中でも、しげちゃんのように健常者との境界の上にいる人からは、いっそう強烈な力が発散される。

 

なぜなら、境界上にいる人が生きづらいのがこの社会だからだ。社会はカテゴライズすることでシステム化されていて、各カテゴリーにきっちりはめられた人の集団であった方が安定するからだ。境界を行ったり来たりする人は歓迎されない。

 

場合によっては、そういう人たちのために危険人物という新しいカテゴリーをでっちあげて、そこへ入れてしまう。ありもしない危険を、可能性として煽って見せて成り立つ商売もたくさんある。そうやって動き続ける資本主義社会の檻。

 

でも、カテゴリーに閉じ込められたぼくたちを外へ連れ出してくれるのは、彼らかもしれない。ぼくらの方が彼らに救われるのだ。

 

 

 

当時、しげちゃんに会ったとき、ぼくが彼のことを名字で「西尾くん」と呼んだら、彼は不機嫌そうに「しげちゃんだよ!」とぼくをたしなめた。

 

昨年末にしげちゃんが急逝したと聞いた。心の中で 彼に呼びかけよう。「しげちゃん、おつかれさま」

 

 

内部がないところに外部はない

自分を見つめることから得られたかたちには、内部があるために、必ず外部を持つ。

 

「意味の変容」で言えば、ゆえに全体概念を持つ。

 

しかし、例えば、二番煎じのかたちには、内部がないために、外部もない。

 

世の中には、そんなものが多すぎる。

 

 

サツマイモの収穫2

2回目のサツマイモの収穫は、ちょっとガッカリだった。

 

もう旬の時期を過ぎてしまったのか、イモから芽が出ているものが多く、土からも抜けにくい。

 

まだ3分の1しか収穫が終わっていないのに、来週の収穫のときは、もう食べられないんじゃないか、と心配だ。

 

 

海野次郎さんの時間

三鷹へ海野次郎さんの展示を観に行った。

 

今回の水墨画には、色が入っていたり、小さなラメのようなものがキラキラしている箇所もあった。

 

海野さんはそれについて、「水墨に色がないと一瞬の緊張が強すぎるから、絵によっては色などを使って、時間を与えるんです」

 

続けて、「そうすることによって、ゆったりとするんです」と。

 

装飾を描き加えることに「時間を与える」という言葉を使われるのが面白かった。

 

 

 

 

経営革新計画

東京都からSOTOCHIKUについての経営革新計画が承認された。 

 

ぼくらのアート的な部分を多分に含み込んだ活動が、経営的に評価されたことの意義は大きいと思う。

 

これがきっかけとなって、心の領域に踏み込んだ経営計画が、公的機関に評価される時代が来ることを望む。

 

そのためには、ぼくらがこの計画を成功させなければ!