gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 やさしい嘘

2004年。フランス、ベルギー、グルジア

グルジアに暮らすエカおばあちゃんの楽しみは、新しい生活を求めてパリへ旅立った息子オタールから届く便り。母エカの愛情が、弟オタールにだけ注がれていることに嫉妬を感じている娘マリーナ。そして、堪能なフランス語でオタールおじさんからの手紙を読み聞かせるのが日課となっている、おばあちゃんっ子の孫娘アダ。

 

 

 

 

 

 

柔道と空間 3

さて、柔道で鍛えられた空間イメージ力は、ぼくの今の仕事に生かされている。相手の動きに合わせて、一瞬で自分の動きを決定する修練は、与えられた環境に対するレスポンスとしての空間デザインそのものに近い。

 

京大時代から発展途上国を中心に30か国を旅した。その後ゼネコンへ就職し、ニューヨーク州立大学建築学部への企業留学させていただいた。帰国後、1998年に会社が事実上倒産し、ライフワークと位置づけていた空間づくりを継続すべく、今の会社を興し21年目だ。

 

空間をつくるテーマは、「開いていること」。それは、柔道でいえば、負けるかもしれない相手に対し、勝つイメージを構築し、実際に闘うことだ。

 

ぼくらは、世界を均一化する「とりかえのきく世界」へ向かう世の中に生きていて、ぼくらの生活はどんどん快適・簡単・便利になっていくが、一方でそれを息苦しく感じてはいないだろうか。

 

計算通りにはいかない「試行錯誤」の中へ人をいざなう空間を目指している。その先にあるのは「とりかえのきかない世界」だ。

 

 

柔道と空間 2

ぼくの柔道の特徴は、「負けない柔道」だった。小学生の頃から、「ネバ納豆」と呼ばれた。ネバネバとまとわりついてくる、ということだろうか。試合できれいに投げられた記憶はほとんどない。きれいな柔道とはとてもいえない。引き分けの確率は高いが、負けは少ないから、無理やり判定をつけない団体戦だと結果として勝率は高い。そんなタイプだった。

 

どう動けば投げられないかを体が知っていたので、あとはどう相手のバランスを崩すかを突き詰めれば、もっと柔道を愉しむことができただろう、と振り返って今でもシミュレーションすることがある。気がつけば、「負けない柔道」を超える試みを今も続けていることになる。

 

相手のバランスを崩すために、前後、左右、上下の方向に相手を動かすとき、高校時代にぼくが明確にイメージできていたのは前後だけだった、と思う。ぼくは捨て身の小内刈りで勝った試合が一番多いが、それは前後に揺さぶることで崩すことができる相手に対してのみだ。力が均衡していれば、左右への揺さぶりは困難だ。そうすると、あとは上下方向だ。

 

一つ下に、道崎くんがいた。彼の柔道の特長はその強靭なバネにあって、上下に相手を動かすことができた。それができるのは、一握りの天才で、美しい投げ技はその人たちのためにある。けれど、その才能がないぼくにも唯一道があることに気づいた。巴投げだ。相手に上下方向の揺さぶりを警戒させることで、風穴を開けられるケースは多いだろう。

 

こんなふうに、柔道から遠ざかって30年以上経った今も、ぼくはきれいな一本を取ることを夢見ている。

 

そんなイメージに辿り着くとき、ぼくは閉じられた場所からパッと開かれた場所へ出たように感じる。そのイメージを実行に移せば、もちろん、考えた通りにはいかない。自分の状態、相手の状態、環境、・・・いろいろな外部要因が作用して、勝てるはずの試合に負けるし、負けるはずの試合に勝つ。実行すれば、未来は常に開いている。

 

(つづく) 

柔道と空間 1

ぼくが柔道を始めたのは、小2の頃、学校の帰り道で上級生の悪ガキ2人にいきなり何発も殴られたということがあったからだ。単純に、強くなりたい、と切実に思った。

 

それから間もなく、佐賀県鳥栖市の警察署で柔道を習い始めた。特に、スポーツが得意ではなかったぼくに、なぜか柔道は合うところがあったのだろう。数か月後には試合に出させてもらい、勝てるようになった。(この道場には、数年後ぼくより3歳下のあの古賀稔彦が入門する。)

 

当時、隣の久留米市に有名な塚本道場があり、そこへ行くことを薦められ、小4から通い始める。当時、全日本錬成大会を6連覇している道場で、世界・全日本クラスの選手をたくさん輩出していた。明治生まれの塚本熊彦先生は目が不自由で、近寄ってこられると誰もが緊張した。「寝技で鼻も口もふさがれたときには、俺は尻で息したぞ!!」と真顔で仰るのを、みんな真剣な顔で聞いていた。ぼくはそんな道場の緊張感が好きだった。

 

小6、中2で全日本錬成大会の優勝メンバーを経験できた。地元の大会では、個人戦の優勝も何度も経験させてもらった。常勝の道場だったから、負けると涙を流した。勝つことの喜びと負けることの悔しさをこの道場で教えてもらった。

 

中学生に上がると学校に柔道部がなく、塚本道場で一緒だった同級生たちの中学校には柔道部があったので、道場へ通っても、同級生たちはおらず、小学生の指導をするしかなくなり、次第に柔道から遠のいていった。かつて頑張った頃の余力で地元の大会では勝ち続けたけれど、自分のレベルは下がっていく一方だった。

 

そんな中学時代を過ごしたため、高1の夏に熊本高校へ転入したときも柔道部に入ろうという気持ちはなく、音楽や演劇をやりたいと思っていた。けれど、1年上のいとこが、佐田先輩に「柔道が強いのが来るよ」と伝えていたそうで、あたりまえのように柔道部から声をかけていただき、続けることになる。

 

(つづく)

ひなまつり

子供が男の子だと、ひなまつりは知らぬ間に通り過ぎる。といって、子供の日にかぶとを飾ったり、こいのぼりを上げたりするわけでもなく、ぼくはそういった文化の意味について、あまり考えてこなかった。

 

facebookには友人が娘のためにひなまつりにひな人形を買いに行った素敵な話が寄せられ、ほっこりした気持ちになりながら、自分の無関心を恥じている。

 

代々受け継がれる、ということの素晴らしさを、こういうお祭りごとを機会にぼくらは感受していくのだと思う。

 

未来の人間の幸福を考えるときに、決して無視できないことだろう。

 

 

自由と価値

自由とは、ある制約下から次の制約下へ移行できることを表し、それ自体に何の価値もない、と小浜逸郎という人が書いている。

 

移民を規制すべき、というコンテクストから来ているが、自由が必ずしも幸福をもたらさないとしても、やはり何の価値もない、という言葉を用いるのは間違っている。

 

自由は、人が人として生きていくための根本的な条件のひとつであり、制約があれば、必ず同時に自由を必要とする。裏を返せば、自由があれば、必ず制約を必要とする。自由でもあり、制約されてもいるのを、「開いていて、なおかつ、閉じている状態」と言い換えることもできる、ぼくらが空間をつくるうえで理想としている状態だ。

 

 

9歳

陽向が9歳になった。

 

陽向の好きな新宿ざうおで、同じく2月28日生まれの一つ年下のトモくんと2家族でお祝い。

 

陽向とトモくんは、鯛を2匹ずつ釣り上げて、全員でも食べきれない。

 

9歳は、大学に入るのが18歳とすればちょうど半分。陽向と暮らせるのもあと9年か・・・と少し寂しい気持ちにもなってくる。

 

子供の成長は速い。これからの一年で、どのくらいぼくが知らない陽向を見ることができるだろうか?

 

 

 

 

詩歌

詩を書くことや歌をつくるように、

今そうしているように、自分に向き合って文章を書くように、

ずっとそんなふうに仕事をする

 

そうやって、できた空間は、ひとの心に

それぞれの詩歌を生むのではないか

 

そこから離れないように

つなぎとめる最後の鎖になれば

 

 

ギター

かれは心底ギターが好きだったんだな、と思う。

 

大企業を辞めて、ギターづくりに専念するかれの姿は、本来のかれらしい姿だ。

 

つくっている途中の写真を見るだけで、かれが中学生の頃に弾いていた姿とともに、音楽が流れてくる。

 

よい空間だ。

 

 

スペイン 詩歌の生まれる風景

RCRアーキテクツの展示をギャラリー「間」で見た。

 

スペイン・カタルーニャに本拠を置く彼らの活動は、ぼくのスペイン観を体現するものだった。

 

そして、そのつくり出す風景は、世界のどこにでもスッと溶け込ませることができる心地の良いものだと思う。

 

ぼくは、日本の風景をこんな方向へ変えていきたい思いで、20数年前にアメリカから帰ってきたのだ。

 

日本に、とりかえのきかない、詩歌の生まれる風景をつくる。

 

もう一度、足元を見つめなおして、未来を拓いていく。

映画 HUNGER

2008年。イギリス。

 

IRA暫定派の受刑者たちのリーダー、ボビー・サンズは66日のハンストで死んだ。75人がハンストの開始を2週間ずつずらして行う計画で7か月後に中止するまで、10名が死んだ、という。

 

この抗議は、イギリス政府が彼らの要求をのむ結果をもたらしたそうだ。

 

損得でものを考えない。

この先どうなるかも考えない。

行動あるのみだ。

 

ハンストに入る前に神父に語る、ボビー・サンズの言葉。

 

美化することなく、静かに考えてみたい言葉だ。