gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

人間

どう考えたとしても、今、一人一人がこうして人間として生きていることは、それだけですごいことだ。

 

人類の歴史が始まるよりもずっと前から何億年も守られてこなければ、存在していないのだ。

 

どこで命のリレーが途絶えてもおかしくない危機を、きっと何万回も乗り越えてここにいる者たちだけが、今人間として生きているのだ。

 

人間は、他の生物と比べれば、とてつもなく凄い能力を持っている。同じ人間にも能力に個体差はあったとしても、他の生物から見れば、ほんの誤差範囲に過ぎない。

 

そんな一人一人の人間が、自分の得意なもの、好きなものを見つけて、その能力を地球全体のために生かすことにただ集中する。

 

すべての人間が、そのように生きることがそんなに難しいはずがない。

 

どうやらつくられた社会は、そのようには機能しないようだ。なぜか?

 

上述のように、すべての人間がすばらしい存在であることを、大多数の人が心から信じていないからではないか?

 

宗教である必要はない。ただ事実を見つめることだ。

 

 

能力

ぼくは、デザインが仕事なのに、「文豪」みたいに時間を過ごしていると揶揄されてきた。

 

確かに、文章を書くことは好きだし、プライベートと仕事の境界はないと思っているから、いわゆる仕事っぽいことを仕事の時間にしていないことは多い。

 

そのような行動を面と向かって批判されることもあるが、ぼくは、ぼくの能力(=命)を最大限にこの世の中に生かしたい、としか考えていない。そのために自分が正解だと思う時間の過ごし方をするだけだ。

 

立場上、他人の生活に対する責任を言われるが、それぞれの人間がそれぞれの唯一無二の能力を確信してこの世の中に生かしていくよう望むのみだ。生活が成立するかどうかは、結果に過ぎない。

 

その優先順位を間違った人たちが、今の社会をつくったから、みんなが混乱している。

 

 

小学校

陽向の小学校の担任先生との面談があった。

 

親の目から見て、陽向は、未熟なところと感心するところがちょうど半分くらいずつを占めていて、どのくらいぼくらの経験から彼を誘導しようとすべきか、決めかねている。

 

自主性に任せたい、のはヤマヤマだが、つい口を出してしまうのが毎日だ。

 

学校はあいかわらず、集団行動がうまくできるように、という目標で指導してくださっている。

 

他人に迷惑をかけないように、という基準も時代によって変わってきている。賛同すべきか、判断がつきかねる。

 

とにかく、魅力的な人間に育ってもらうことが、ぼくの願いのすべてだ。

 

 

結束線

鉄筋をつなぐための結束線というものがある。

 

つないだ後で、鉄筋はコンクリートの中に入るのだから、それまでの一時的なものだが、鉄筋で組まれた複雑なカタチはこれがなければ成立しない。

 

このカタチはコンクリートが打たれた時点で永遠に姿を消すのだから、工事者でなければ見ることができない。

 

そういったものの魅力もまた永遠だ。

 

 

結束線

鉄筋をつなぐための結束線というものがある。

 

つないだ後で、鉄筋はコンクリートの中に入るのだから、それまでの一時的なものだが、鉄筋で組まれた複雑なカタチはこれがなければ成立しない。

 

このカタチはコンクリートが打たれた時点で永遠に姿を消すのだから、工事者でなければ見ることができない。

 

そういったものの魅力も永遠だ。

 

 

おとうさん・・・

コンタクトレンズを妻と買いに行ったら、30代と思われる男性店員が、妻のことを「おかあさん」と呼んだ。

 

そして、まさか、とは思ったが、ぼくのことを「おとうさん」と呼んだ。

 

その瞬間、

 

「お前におとうさんと呼ばれる筋合いはない!!娘はやらん!!」

 

と表情を変えず、心の中で叫んだ。

映画 今日子と修一の場合

2013年。奥田瑛二監督。

 

東日本大震災の前にすでに不幸だった男と女は、震災によって、どう変わったのか?

 

これは、コロナ禍の前にすでに不幸だった男と女は、コロナによって、どう変わったのか?と似ている。

 

震災から1年も過ぎてから、互いに知らぬ同士の二人は生まれ故郷の南三陸町を訪ねる。

 

男は坂を上り、女は坂を下る。このラストシーンは何を意味するのか?

 

 

スイカを覆うカゴ

野菜を育てる中で、スイカとメロンはちょっと別格扱いだ。

 

葉はすごい勢いで成長する両者だが、今回、実はどれくらい大きくなってくれるものか、想像がつかない。

 

実の先にある茎を切って、土からのエネルギーが実に集中するようにする。

 

さあ、これからどれくらい育ってくれるだろうか?

 

しかし、大きくて目立つくらいに育てば、動物に狙われやすい。

 

カゴ二つで、今はまだ小さな実を覆う。さて、どれくらい育ってくれるか?

 

 

映画 天気の子

2019年。新海誠監督。

 

彼女が祈ると晴れになる、という超能力を持つ15歳の女の子・陽菜は親を失って、小学生の弟と暮らす。16歳の帆高は、神津島からの家出少年。

 

社会的な最弱者たちが、誰も持たない超能力を持っている、という構図。

 

このような構図が、人の心を強く引き付けるのはなぜか?

 

祈ることで起こる奇跡。祈るとは、どのようなことか?

 

人は、どのように祈ればよいのか?

 

確かに、世界はその答えを見つけようとする心によって、変えられるのかもしれない。

 

 

 

 

 

理想の生活

コロナ禍によって産業資本主義がいかにもろいか、を思い知らされて、それぞれの人の理想の生活像自体が変化してきているだろう。

 

ただ、多くの情報が飛び交っていて混乱しているために、今後を見通すことができず、なかなか言語化できる状況ではない人が多いのではないか。

 

ぼくなりにはっきりしてきたことを書くと、全面的に何かに頼っていればいい、という生活は終わった、ということだ。今までも、自立してやってきた、という思いを持っている人もいるだろうが、今まで自明だと思っていたことがそうではなくなっていくとすれば、自立を支えていた見えなかったものが揺らぐかもしれないのだ。

 

例えば、アメリカでは、清掃員が感染して、街中にゴミがあふれた、ということが起こったらしい。当たり前の生活を維持していくことすら、揺らぐ可能性に晒されている。どんなことだって、起こりうる。

 

ある意味、人間はサバイバルな事態に直面しているだろう。そして、普通ならそのような事態になると、人間は美的価値を追うことを放棄せざるをえない。

 

けれど、産業資本主義がつくってきた生活がある意味であまりにも生命感覚の薄っぺらいものであったがために、危機に直面することが生きている感覚を強めている今、むしろ、人間は美的感覚も研ぎ澄まされているのではないか、とすら思える。

 

ハウスメーカーはもう半世紀に亘って便利・快適な家をつくり続けきたけれど、コロナ禍になってぼくたちがつくらせていただいているプロジェクトは、ハウスメーカー的な家の中のリノベーションだ。大量生産建材の便利・快適な部分をあえて排除し、金属や石を素材として原初的な自然の中にいるかのような空間へ変える試みだ。

 

それは、半世紀前はまだそうであった、壊れているものを前提とした生活を積極的に選択することではないか?今後起こりうるどのような状況にも対処していける構えをつくるためには、つまり、誰かの掌の上に載せられた生活を降りることだ。

 

 

地中

こちらは植えただけでほとんど何もしていないのに、野菜の実がなってくれるうれしさ。

 

土と雨と太陽のおかげだ。ミツバチや蝶も受粉を手伝ってくれたに違いない。それから、土の表面や中にいる節足動物、微生物。周囲の雑草たちも、スイカやメロンの下に敷かせてもらっている。

 

自然に助けられていることを実感しながら生きる。ずっとそんな生き方に憧れてきた。

 

地上のことばかり意識して生きてきたが、地中にもっと親しくなりたい。地中は、生き物たちの墓場でもある。ぼくらの知らないところで、姿を消して、いつしか土に還っていく。

 

そこから生まれてくる命は、たくさんの死を肥やしにして目の前にある。

 

 

GF9 SOTOCHIKUの今後の歩み

2020年、上記の仕組みに法的問題が生じないように微調整と、ドナー規程や各種契約書を弁護士事務所へ依頼し作成済みである。また、広く一般のSOTOCHIKU素材の所有者から情報を得て、その中から新しい空間づくりに使用することができるように、ウェブサイトを構築し、facebookYouTubeなどで広告を出し初めている。

 

今後は、広告に力を注ぎつつ、「なったもの」を解体・取得・運搬・保管・加工の各段階に必要なものを揃えていく。また、完成したSOTOCHIKU空間を弊社既存HPで紹介し、空間のクライアントに紹介するために、facebookなどで広告を出していく。

 

2020年中に、複数のSOTOCHIKU空間を完成させ、来年以降は年間10件以上を完成させることを目標に置き、今後の当社のつくる空間のスタンダードにしていきたいと考えている。

 

これにより、そのままでは廃棄処分となってしまう素材(SOTOCHIKU素材)に新たな生命を吹き込み、新しい空間において素材を生かす道を作ることにより、素材そのものの価値を永続させるという社会的価値を作り出すと共に、新しい生命を付加された素材の対価を各種NPO法人に寄付するというカタチでの社会貢献活動を行なっていきたい。

 

SOTOCHIKUは、市中に散らばる建築などの朽ちた部分や汚れた部分を別の視点で評価する観点を提示するものであり、SDGsの「11.住み続けられるまちづくりを」に関係すると思われ、また、「12.つくる責任 つかう責任」にも、取り壊されるものから積極的に新しくつくるものの素材を取り出す、という新しい概念を創出する可能性を秘めていると感じている。

 

さらに、今までにない、より豊かな空間づくりが可能になり、当社が求めてきた「外部性を内部空間に取り込んで自由になれる空間をつくる」という根源的なコンセプトを確実に実現していきたいと考えている。

 

 

 

GF8 「なったもの」への回帰SOTOCHIKU

当社が「なったもの」を内部空間へ取り込むことを一度断念したのは、2003年頃だ。問題は次の二つであった。

 

1.「なったもの」を内部空間へ取り込むためにつくったシステムパーツが、十分な汎用性を持ちえなかったこと。


2.「なったもの」をスクラップ以外にはほとんど手に入れることができず、スクラップのみでは本来当社がつくりたい詩的な空間をつくることができなかったこと。

 

1.については、システムパーツを使用しなくても、弊社が22年間で培ってきた空間デザイン力と制作力によって「なったもの」を当時よりずっと効果的に空間づくりに取り入れていくことが可能であることが明らかであり、現在の問題にはなりえない。

 

より大きな問題は、2.である。当社が新しい空間づくりに使用したい「なったもの」とは、例えば、市中を歩いているときに通りがかった家の塀が、太陽や風雨に晒されて表情が変化したものである。このようなものには、それぞれに過ごしてきた時間の中での歴史があり、日常の中でこれを目にしてきた人たちの思いがある。放っておけば、いつか解体され、失われてしまうしかない現状をどうにかしたい。これを素材として、新しい空間をつくることができれば、空間に詩的な作用を及ぼすことができる。しかし、素材として取得するためには、家のオーナーとの気の遠くなるような交渉が必要となる。

 

2017年から、「なったもの」を内部空間に取り込むプロジェクトをSOTOCHIKU(外築)と名付けた。(名前は、想定「外」のものを構「築」する、という意味を表している。)そして、「なったもの」を収集するシステムづくりに取り組み始めた。解体業者や造園業者などに働きかけたが、コンセプトには賛同を受けても、労力に見合う利益をシェアする構造を確立できず、時が過ぎていった。

 

2019年、古着を寄付で集めるサイトにヒントを得て、「なったもの」を所有するオーナーが寄付を表明することにより、「なったもの」を収集する方法を思いつく。まずは、寄付の表明を受けた「なったもの」の中から、新しい空間づくりのデザインに活用したいものを当社で選び、クライアントから提案と見積の承諾を得たとき、寄付が成立する。寄付先は、当社がその活動に強く共感する3つのNPO法人からドナーがひとつを選ぶ。寄付金額は見積額からその40%の当社手数料を引いた金額だ。選ばれたNPOは、寄付証明となる領収証をドナーへ発行し、ドナーは確定申告時にそれを所管税務署へ提出し、最大で寄付金額の約50%を寄付金控除として受けられる、という仕組みである。