gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

一人で遠出

ぼくらが忙しくて、日曜日にどこにも行けない日は、陽向は退屈だ。

 

今日は、とうとう一人で遠出。

 

電車を乗り継いで、お台場の水の科学館へ。

 

いろんな人に聞きまくって、なんとかたどり着いて、施設の中では受付のお姉さんにかわいがってもらい、結構楽しんで帰ってくる。

 

どんなときも、人に助けてもらいながら、目的を達成する。場合によっては、目的以上のことを達成する。

 

そんな得な性格を無条件に褒めてはいけないかもしれないが、やろうと思ってマネできることでもない。

 

ずっと彼は彼のままでいてほしい、と願う。

 

 

床に刻まれた時間

表参道のグリッドフレーム本社には10年以上経ったフローリングがある。

 

ぼくらの前の前に入ったリラクゼーションのテナントが残していったフローリングだ。当時の写真ではフローリングは茶色だが、その後、白く塗られ、さらに、設計事務所が入って、その上にカーペットを貼り、出ていくときにそれを剥がして糊が残った状態でぼくたちに引き渡された。

 

ぼくらはそれをそのまま6年に亘って使っているが、これまでの時間が刻まれた床の表情をとても気に入っているし、訪れた誰もがそれを好きだと言ってくださる。

 

ぼくらが空間に求めているSOTOCHIKUの素材の代表例でもある。

 

そして、錦糸町にあるグリッドフレームの工場には、床に鉄板が敷いてあるが、制作作業の溶接の火花が飛び散り、ペンキが飛び散った痕が、これまでの時間を刻んでいる。

 

これもまた、SOTOCHIKUの素材の代表例の一つで、今まで複数のプロジェクトに使用している。(美容室RealClothes、Pizzeria da Marcoなど)

 

床に刻まれた時間は、静かにぼくらに語りかけてくれる。ぼくらはそれに耳を澄まして、忘れていた何かを取り戻す。

 

 

 

大衆酒場

古くから親しまれてきた大衆酒場のよさを超えるような大衆酒場を新しいプロジェクトで体現することは簡単ではない。

 

まず、そのよさは、いわゆる”素敵な”内装空間によって達成されるものではない。長い間そこに蓄積した時間が、その場を特別なものにしている。長い時間によって完成したそこにいる人と空間が一体化した姿がその場のよさかもしれない。

 

だから、大事なものは、空間というより、時間である。やすらぎ、緊張、ルール、その他など店が持つ「人格」全体が重みを持って体験される時間だ。

 

それが、客を十分以上に満足させる。客はこの店に来ることができる幸せをかみしめる。

 

だが、「所詮は大衆酒場です」と、店の方はいたって謙虚だ。

 

もちろん酒場だけではない。そんな店たちにぼくらは育てられてきた。

 

今後は、どのようにしてそんな店を新しくつくれるか、に挑戦していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめの政治学 2

陽向が学校で遊んでいるグループでも、仲間外れが行われているようだ。

 

悪い方向へ行けば「孤立化」につながる。

 

子どもの環境は、いつも危うい中にある。自分のことを思い返しても、そうだった。

 

学校の中は無法地帯だ。

 

それが我が子であれ、他の子であれ、決して孤立化させないよう大人が洞察することが大事だ。

 

 

 

いじめの政治学 1

柄谷行人の書評を見て、精神医学者・中井久夫の「いじめの政治学」を読んだ。

 

書き留めたい文章がたくさんある。

 

「鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。」

 

 

 

「ルールに従って遊べるのは四年生からであるとすれば、その前年である三年生が非常に重要であるはずだ。実際、子供の絵画を見ていると、遠近法に従うようになるのは三年生から始まって五年生に完成する(思春期になってまた乱れる)。遠近法が描けるということは、これを頭の中の抽象空間に移せば、ものごとの軽重の順序、緊急か猶予があるか、優先順位が何かなどを整合的に表象できることである。ルールに従ってプレイできるということもその一部で、そういうものを頭の中の空間に遠近法的に配置できることを示すものである。」

 

「私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。他にもいろいろな分け方があるだろうと思うが、取りあえず、これに従って説明しよう。これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。」

 

「古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意」という人間のメカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。」

 

「時間的にも、加害者との関係は永久に続くように思える。たとえ、後二年で卒業すると頭ではわかっていても、その二年後は「永遠のまだその向こう」である。ここで、子どもの時間感覚が単位時間を大人よりも遥かに長く感じさせることはぜひ言っておかなければならない。」

 

読んでいて発見したこととして、ぼくには権力欲が欠落している、ということがある。けれど、同時に、他人を笑わせたいがために、だれかを一方的にからかい、結果として、その人を傷つけた経験があるかもしれない、ということも思い出した。相手は、いじめと感じていたかもしれない。

 

ここで取り上げられているいじめほど精巧なものではないが、最後に自戒のためにもう一つ抜き出す。

 

「もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分ける最も簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。」

 

 

 

 

言葉と記憶

父親が亡くなったとき、

ぼくは父を語る多くの言葉を持っていないことに気づいた。

 

他にも、何度も会ったことのある人が亡くなったときに、

その人を語る言葉を持っていないことの淋しさを

幾度も感じてきた。

 

そのことで、ぼくの中からその人たちが少しずつ消えていってしまうことを

どれだけ繰り返してきただろう。

 

もっとぼくが言葉を持っていれば、

その人を知る多くの人と共に、その人を心によみがえらせることもできただろう。

 

それを志す人間がいてもいいだろう。

 

 

 

素材を置く場所

時の記憶を刻み込んだ素材を集め、保管する場所を探し始めた。

いよいよプロジェクトの始まりだ。

 

ぼくは、素材を探して、その歴史を調べ、書き記すことに力を入れる。視覚的イメージだけに寄らず、まるで本を書くように、空間をつくっていく。

 

本は、開くことによって、初めて人に関係することができる。視覚的イメージだけに関係したいときは、本を開かなければいいのだ。

 

書き記されることなく口述で伝承されてきた民話を、文字に残す仕事のように。ぼくは、時を記憶した素材について、分かる限りの史実を記して、伝えていこう。

 

 

映画 2/デュオ

1996年。諏訪敦彦監督。柳愛里。西島秀俊

 

同棲する二人の生活を追う。

 

女を演じた柳愛里は複数の映画で主演をつとめながらwikipediaにも出てこない。やや調べていくと柳美里の妹であることが分かったが、どのような人なのかはさっぱりわからない。世の中への露出が多くてもネット情報が出回らない人がいることがとても不思議で新鮮だ。この映画でのこの人の演技はとても優れていたと思うが、またこのように行方を追えない人であることも、この映画の一部のように感じてならない。

 

2人の内面を追う息苦しさに、風を吹き込んでくれるものがある。それは、空間的にも時間的にも外部性だ。今の回路から外へ出ること。二人の部屋から外へ出ること。外へ出れば、ぼくらは電車に乗って、どこまでも逃げることができる。永遠に遠くへ離れることも含めて、ぼくらには可能性がある。本人たちも必然的に外へ出る。生きるためには、それ以外に方法はない。

 

俳優たちは状況を与えられて、シナリオなしで演じていたらしい。個々が全体を捉えて考える、という創造性の連鎖との類似をそこに見る。

 

 

微笑み

切実なところからくる事業は魅力的だ。

 

ぼくの場合はどうか?自問する必要があるということは、ぼくにも切実感はさほどないことの証明かもしれない。それでも、それをここに書き記したい、という衝動に駆られている。

 

 

捨ててしまうこと、忘れてしまうこと。そんな不義理を繰り返しながら生きることに対する懺悔の気持ちと、だがその被害者(物)だからこそ獲得する美しさを見いだせることへの安堵の気持ち。

 

ぼくもまた、捨てられ、忘れ去られることに対し、静かな気持ちになれる。そう、忘れ去られゆくものはどれも微笑んでいる。

 

この微笑みを感じとることが、続いていく命のリレーの意味ではないか。

 

 

 

買占め

近くのコンビニに牛乳がない、という日々が続いている。

 

少し離れたところまで行けば普通に売っているわけだから、近くの誰かが大量に買い占めているのだろうか。

 

日常品が何かの必要で誰かに買い占められたら、相当不便なことになる、という当たり前のことを実感する。

 

買い占めた人は、そんな自覚もないかもしれない。

 

自分が何気なくそうしていることもあるかもしれない。気をつけよう。

 

 

 

 

伝承 2

また、その素材の知りうる限りの情報を取材し記録することによって、

空間に歴史的な資料としての重さを与える

 

「住まう」「滞在する」という概念が、

定住的なものから、寄生的なものに移行している中、

多様な空間を体験する人が増えている

 

そんな状況下で、空間が言葉で書かれることによって、

それぞれの空間が小説の中にあるかのように存在感を増し、記憶に留められていく

 

 

 

伝承 1

時を経たものの価値は両義的で、見る者の視点によって変化する

 

この性質を利用し、価値観の相反する間で物物交換を成立させて、

汚しうる美を収集し、それを空間づくりの素材として生かす

 

ここでは金銭を媒介させないことが重要である

 

なぜなら、その瞬間に、その素材は商品となってしまい、

商品となってしまえば、取替のきかない存在ではなくなってしまうからである

 

風化したものが一般的には見向きもされないことは健全な姿であり、

それを「さりげなく」空間に取り込み、

空間を体験する人々に対して、

潜在的にやさしい心を呼びおこすものとして作用するのが

その理想的な存在の仕方だろう