gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

死生観

森敦の「意味の変容」で、「死んだら絶対に落とさねばならない約束手形」とあって、

今までよく考えずにきた。

 

問いを続けながらずっと生きても、死はいつ訪れるかわからない。だから、死は天に任せるものと考え、ひたすら問うことに集中すればよい、と考えていた。

 

つまり、死を意識してもしょうがない、と。

 

だが、「死んだら絶対に落とさねばならない約束手形」を持っていたとすれば、そうはいかない。

 

いつ死んだとしても、必ずその約束を果たさねばならないならば、今この瞬間の重みは違ってくる。

 

このシンプルな答えが現実をどのように変える力を持つのか?

 

 

 

 

 

 

海野次郎さんの展示

小石川の大正時代に建てられた住宅で海野さんが個展をされるとのことで、久しぶりに伺ってきた。

 

海野さんの水墨画が、100年の時を経た空間と対峙し、会話する。

 

その空間に自分も在ることに自ずと感謝の気持ちが湧く。

 

海野さんのように描くことに人生を賭ける方がいらっしゃることに、いつも勇気づけられている。

 

 

映画 四月物語

1998年。岩井俊二監督。松たか子

 

20年以上前の映画、と言えば、ずいぶん古い。ぼくが会社を立ち上げた年につくられた。

 

けれど、時代感はあまり感じない。

 

「どうしてこの大学を選んだの?」という質問に答えを濁す主人公。

 

ワクワクする気持ちが伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

微細な違い

人の心を捉えられない淋しさ。

 

戦略的であろうとするのをよして、素のままで相手に会うことにしてから、ずいぶん時間は過ぎているが、状況をコントロールしなければ、会話が無為になってしまうことも実感している。

 

内容、表現などすべて微細な違いに過ぎないのだろうが、結果は0か100かで表れる。

 

そういうことのために、空間をつくっているのに、なんという失態だろう。

 

 

 

本と空間

仮に、「芸術とはとりかえのきかない世界に属するものだ」と定義しよう

 

 

 

「芸術には二つのジャンルがある」と森敦は言っている

 

一つは、絵画、彫刻や音楽などの、否応もなく目や耳に入ってくる、強制力をもつところのジャンル

 

もう一つは、物語のように、1ページずつめくってもらわねばならぬジャンル

 

 

本と空間は後者だ

 

無視することだってできるし、どこまでも入っていくことだってできる

 

 

 

 

「意味を取り去らねば構造できない、構造できなければ新しい意味を得ることができない」とは、

 

「とりかえのきく世界を手段として経由しなければ、とりかえのきかない世界という目的にはにたどり着けない」ということである

 

つまりは、全人口のうちの大多数が、手段としての労働に従事し、それが人生の時間の大部分を占めるのであれば、死ぬときになって、自分をとりかえのきく存在のように感じてしまっても不思議はない

 

 

 

けれど、もちろん、すべての存在は、とりかえのきく存在であると同時に、とりかえのきかない存在である

 

(つづく)

 

 

本棚とソファとオーブン

「本にはどれだけお金をかけてもかまわない」と貧乏学生のBen Pollardが言った

 

彼の部屋には、本棚と古いソファがあった

 

他に何があったか、思い出せない

 

 

・・・そう、オーブンがあった

 

彼と彼の彼女Jeniは、ぼくとChii-luhをクリスマス・ディナーに招いてくれて、

 

七面鳥を焼いてくれたことがあった

 

 

なんて素敵な時間だったろう

 

 

そして、いつもこれからの世界について話した

 

 

州知事が変わって、大学の学費が引き上げられる話や

 

捨てられたものが捨てられた姿のままで新しい建築の材料になっていく未来の話・・・

 

 

あれから何十年も過ぎて、

 

そのとき話したことの延長線上に立っているという自覚だけが

 

ぼくを奮い立たせてくれる

 

 

まだまだこれからだ

 

 

 

友人へ

昨日は、ありがとうございました!
 
陽向ともども、とても愉しませてもらいました
 
イチゴを摘んで箱に入れながら、時折口に入れる、という幸せは他で味わうことができない瞬間です
 
こんなふうに働けたら、と夢見てしまいますが、農家のご苦労を知らない故ですねw
 
陽向のみならず、自然の中のタガメは初めて見ました。昭和の子供たちのような現代っ子を見るのはうれしいですね
 
 
 
奥さまが「娘は自分の子供に、自分の子供の頃の思い出をどう伝えるんだろう?」と言っていましたが、本当に30年後はどうなってるんだろう、って最近思います
 
AIなどが世の中の仕事を変えてしまって、お金を稼ぐという意味で働かなくとも生きていける時代がやってきたら、世の中はよくなるのだろうか?って
 
ハイテクにはポジティブなイメージがなかった私ですが、もし上記のような社会になるのだったら、文句はないなあ、と思うこの頃です
 
そしたら、自然と親しむ生活も戻ってくるのかもしれません
 
 
 
では、またお声をかけていただけたら、うれしいです
 
今度は妻も行けると思いますし、羽生にもお邪魔したいです
 
では、皆さんお元気で!
 

イチゴ農園

大学の後輩の誘いで、陽向を連れて栃木県下野市へイチゴ狩りに。

 

農家の方のご厚意で、出荷が終わった残りのイチゴを取らせていただく。

 

イチゴを摘みながら、腰を休めるために立ち上がっては、摘んだばかりのイチゴをほおばるのは幸せだ。

 

そして、近くの田んぼへ行って、子供たちはカエルをとる。のみならず、タガメタイコウチも見つける。これには、大人たちもびっくりだった。

 

 

 

 

令和の運動会

ぼくらが子供だった頃の運動会は、テントの下で家族と弁当を食べることが一つの大きなイベントだった。親たちが参加するプログラムの内容も面白く、今でも思い出すシーンがある。運動会は、家族のイベントでもあった。

 

今年の陽向の運動会は、親たちは立ち見。弁当は、子供たちだけで教室で食べる。親たちが参加するプログラムも、子供たちから見て楽しめるような内容ではなかった。

 

競走よりも踊りや吹奏に力を入れる、というのが、今の時代を表しているのは分かる。

 

しかし、子供たちの記憶に何が残るか?学校が考えるべきことは、このことに尽きると思う。

 

校長の講評は、いつも紋切り型。「おかげさまで、とてもよい運動会でした。」

 

もっともっと、よい運動会を目指すことは可能だ。

 

 

時空

時の経過とともに朽ちていくもの。

 

ある空間を新しくつくる。それが、古びていく。人が住まなくなると、空気が動かず、ほこりが積もり、湿気がたまり、カビ、虫の温床になり、さらに急速に朽ちていく。

 

朽ちていくことは、人にとって一般に、不快なことだ。人はそのようなものを遠ざけたいと思う。

 

だが一方で、朽ちていくものは、その単独性を露わにし、振り向いた人間の心を捉えて離さない。

 

人がいかにその空間と関わったか?朽ちていく様は、明白にそれを表現している。新しいままに保ちたいという心のみが美しいわけではない。

 

あらゆる空間がこのような時間の旅をする。

 

そこに生きる人間としては、空間は常に、自分次第でとりかえのきく世界ととりかえのきかない世界を自由に行き来できる空間であり続けることが重要だ、と思っている。

 

時間による空間の変遷の中に、人為ではないところに、そんな瞬間はあると思う。

 

以下は以前、書いたものだ。

 

「ぼくたちグリッドフレームは、空間のつくり方によって、これら2つの世界を行ったり来たりする装置をつくれると考えており、これまでにも、それを根源的なテーマとして様々な空間をつくってきた。

 

例えば、カフェには心休まる環境が必要だ。ぼくらは、何も考えたくないときには、とりかえのきく世界の、たくさんの人間の中に紛れるような環境に身を置きたいと思う。その方が心が休まるからだ。そのような空間は、どこにでもあるような内装でかまわないだろう。

 

けれども、その空間のディテールには何か見慣れない、不思議で複雑な質感があるとする。それは、ぼーっと眺めれば、意識の中に入ってくることもないけれど、焦点を合わせれば、思わず引き込まれて見入ってしまうようなものだ。カスタマーは、ぼーっと眺めれば、風景として見えてくるため、とりかえのきく世界に留まることができ、焦点を合わせれば、そこに一対一の関係が成立し、とりかえのきかない世界が開示される。カスタマーは、選択的にどちらかの世界に属することができるのだ。」

 

どのような空間もこのようにありたい。日々、変遷していく空間。最初は、新しい空間。壊されるときには、全ては朽ちて、もう手遅れの空間。本質の変遷の瞬間を見つけることができれば、そこで手を加えて、最も価値の高まった空間を実現できるのではないか?

 

 

たまり場

焼け跡の闇市の屋台。―「意味の変容」に出てくる、たまり場。

 

「しかし、あのときは嬉しくもあり、驚きもしたよ。あの丘に立ったときは、もうきみに会えないような気がしていたのに、どうしてあんなところで会ったんだろう」

 

「みなが堕ちて、おなじようなところに溜まったんだ。」

 

たまり場とは、その言葉通り、重力のままに人がいざなわれる場所だ。人は、水のように窪みへ集まってくる。

 

 

 

 

 

 

プラティの大量死

10日ほど前まで、家の熱帯魚の水槽には、この半年くらいずっと70~80匹くらいの魚がひしめいていた。

 

それまで、魚の数の割合は、オレンジのプラティ50匹、グッピー20匹、その他のプラティ10匹、ネオンテトラ2匹、ゴールデンハニー2匹といったところ。

 

オレンジのプラティは爆発的に繁殖して、その数を増やしてきたが、12日前に1匹が底で死んでいるのが見つかり、11日前にはさらに2匹、そして、10日前1日で30匹が次々に動かなくなった。

 

水質などいろいろと原因を調べたが、他の魚たちは元気なため、原因を特定できない。

 

その日の後は、水槽の中はずっと落ち着いている。また、日常を取り戻した感じだ。

 

水槽は狭い。泳いでいる魚同士でぶつかり合うくらいだ。そんな環境では、個体数を自然の力で調整するのだろうか?

 

ぼくら人間にもあてはまる現象なのかもしれない。