gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 ミスター・ノーバディ

2009年。フランス、ドイツ、カナダ、ベルギー。なんとアメリカ資本は入っていない。「八日目」のジャコ・ヴァン・ドルマル監督。

 

ハリウッド的な壮大さがあるが、もう技術は世界に行き渡っているんだなあ。

 

選択一つで変わってしまった自分のさまざまな人生は、同時にパラレルワールドで存在している、という視点。

 

そのすべての人生が、他人からはどう見えたとしても、同じ価値があった、と。

 

どれが本当か?という問いには意味がなく、どれも自分に嘘をつかないで生きればよい。

 

相対的な価値に背を向けるとき、誰もがノーバディになる。

 

それは、生の究極の理想か?

 

 

時を生む住居 7

もう一度、強調したい。人は誰でも生きている限り、体一つになっても常に余りある永遠を手にしている。だから、さらなる永遠を手にするために大きな機械の歯車になることを強制される必要などない。


そのことを実感するには、それぞれの人が自分にとっての「時間」を見つめる機会を持っていただきたい、と願う。いつか、ぼくらのつくる空間を体験していただきたい。

 

時を生む住居 6

リノベーションは解体から始まる。いいかえれば、固まったものが解かれて散っていく「ほどろ」から始まる。

2019年から住宅のリノベーションを始めた。KZ邸のリノベーションではカタログ建材でつくられた壁が取り払われて、下地のコンクリートや鉄筋があらわになった瞬間を見て、依頼主が笑顔でこう仰った。「すでに、いい感じになっていますね。」依頼主は、時間が生まれたのを感受されたのだと思う。


ぼくも笑って応えた。「ええ、壊れるほど、良くなりますね」


一般に行われているリノベーションでは、あらわになった下地の材料を、また新たな建材で覆い隠して、生まれた時間を消滅させて凝固したものが完成して工事を終える。


ぼくらはそうしない。解かれて動き始めた糸の自由な戯れに任せて、その動きに寄り添いながら、新しい何かをつくっていく。つくりながら考える。これが「創造性の連鎖」である。もちろん、あらわになった下地がそのまま残ることも多い。依頼主に空間を引き渡した後も、生まれた時間は消えることなく、そこで生き続ける。


また、ぼくらは新しくつくる空間に既に長い時間を過ごしたものを空間づくりの素材として取り入れていく活動SOTOCHIKUを進めている。


さまざまな時間を過ごした素材が一つの空間に集結し、互いに複雑に呼応し合うことにより、人間が「時間という定規の、等間隔に刻まれた目盛りの一点に産み落とされた」という認識を壊したいと思っている。


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時を生む住居 5

なぜこんなことになってしまうのか。


ぼくら人間がこの世界に体一つで生まれてきたとき、皆すでに永遠性を内包している。人間一人ひとりが、他の動物から見ればほとんど神のごとく圧倒的に優れた能力の持ち主であり、その意味では個人差などわずかな誤差に過ぎない。豊富な資源に満ちている美しい地球環境も含めて、本来ぼくらは何かを求める必要がないくらいに与えられて生まれてくる。そのような認識を前提とすれば、古代の生活のように、時間とは「永遠を基盤として、それが解かれるときに生まれ、やがて結ばれたときに消えるもの」として捉えることができるだろう。


だが現代社会は、体一つの人間を何も持たない数字のゼロと見なす。そのために永遠を常に渇望して生産に駆り立てられ、数字を増やそうとする。数字に上限はなく、いくら大きな数字を手に入れようと永遠に届くことはない。だから、人々はいつも不安を抱えている。もっと生産しなければ、と均質な時間の目盛りの上でひたすら機械のように働き続ける。


この定規の上から、降りるにはどうすればよいか?


そのために、ぼくらは空間づくりの中でなにができるだろうか。


・・・・・

 

時を生む住居 4

「人生とは、なにかを計画している時に起こってしまう"別の出来事"のことをいう。」

 

ある映画でこんな言葉があった。古代の時間とは、まさにこの「別の出来事」のときに流れるものだろう。だから、その時間の中には、嬉しいことも悲しいことも含めての「人生」がある。

 

現代社会は計画している時に起こってしまう「別の出来事」を嫌う。ネガティブなことが起こらないうちにその原因を取り除こうとする努力は、それを徹底すればするほど、同時にポジティブなことも失ってしまう結果をもたらしてしまう。

 

例えば住宅についていえば、ハウスメーカーは 全てのパーツを自社カタログから選ぶシステムを完成している。そのため、「別の出来事」が入り込む余地がほとんどない。そのことによって、品質が保証され、工程や見積がずれる要因もほとんどないから、依頼主は安心して竣工を待つことができる。一方で、そのメーカーのつくる住宅は全て同じ仕様でつくられるため、依頼主のためのオリジナリティへの驚きや感動はほとんど期待できない。


同じことがあらゆる分野で当てはまる。ぼくはこのことに強い危機感を抱いている。もし、現代社会における計画すべてがそのまま実現するようになれば、人間は時間を失うと同時に、それぞれの「人生」を失うことになりはしないか。


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時を生む住居 3

家の中で夜明けに目覚め、外へ出かけ、帰宅して、夜更けに眠る。

 

その一般の生活スタイルが、現代と古代とで著しく違うわけではないだろう。

 

だが、現代の生活が決められた時間の中での「生産性」を目標としているのに対し、古代の生活には別の価値観があったのではないか。

 

生産とは逆の「解体」によって時間が生まれ、バラバラに解(ほど)けたものが「結合」することで時間が消える。それが古代の時間であるならば、そこには固まって動かない永遠性が基盤をなしていることが分かる。

 

その永遠とは例えば、夜の闇であり、盤石な大地であり、同じく盤石な地位・役職であり、天賦の才能であり、安定した生活であり、計画通りに実現する未来もそうだと言えるかもしれない。さらには、不変の愛やその根底にある悲しみ。そのような基盤が崩れることで初めて時間が生まれるのだ。

 

現代は、古代人が前提とした永遠をまるでないものかのように目的として掲げ、人間にたゆまぬ生産を求め、何に対しても入念に計画し、計画実現のために一致団結を要求し続ける。そんな努力を強いられながら、ぼくらは時間のない虚無の世界へ向かっているのではないか。

 

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時を生む住居 2

古代の日本人はそのような時間の捉え方をしていなかったかもしれない。

 

夜明けのことを「夜のほどろ」と表す歌が万葉集にある。

 

「ほどろ」とは、解く(ほどく)、施す(ほどこす)、迸る(ほとばしる)であり、「ゆるみ、くずれ散るさま」を意味する。動かない固い暗闇が朝陽に融けて崩れ散る動的な様子を表すのが「夜のほどろ」だった。

 

「時」は「解き」、あるいは「融き」だという説がある。 固まって動かない永遠性が解体され、その瞬間に「時」が生まれる。

 

そして、解かれたものはやがて、また結ばれ(=「むすび」)、固まって動かなくなる。

 

時間は、生まれて、消えることを繰り返す。止まっているところに時間は存在しない。

 

・・・・・

 

 

万葉の時間

夜明けのことを「夜のほどろ」と表す歌が万葉集にある。

 

「ほどろ」とは、解く(ほどく)、施す(ほどこす)、迸る(ほとばしる)であり、「ゆるみ、くずれ散るさま」を意味する。動かない固い暗闇が朝陽に融けて崩れ散る動的な様子を表すのが「夜のほどろ」だった。

 

 

「時」は解き、あるいは融きだという説がある。 永遠性は解体され、その瞬間に「時」が生まれる。

 

そして、解かれたものはやがて、また結ばれ(=「むすび」)、固まって動かなくなる。

 

時間は、生まれて、消えることを繰り返す。

 

 

 

 

金木犀の香り

誕生日が近づくと金木犀の香りが漂い始めて、全く忘れていた誕生日の到来を知る、ということをくりかえしていたが、今年はその香りがしない。

 

なぜかと思ったら、マスクをしていたからだ、ということに気づいた。

 

マスクは周辺に漂う香りをほとんど消してしまう。

 

全世界で人間の知覚を変えてしまうとなると、やはりマスクを外せる日は早く来なければならない。

 

写真家 宅間國博

1991年に宅間國博さんの写真集「REBIRTH」に出会った。時間が経って、壁のペンキが剥がれ落ちた跡などをクローズアップした写真集だ。

ぼくにとって、あるいは、ぼくの人生にとって、とても大切な写真集だ。

先月、生まれて初めてのファンレターをメールで送った。もう本を買ってから30年近く経ってから。

そして、今日なんとZOOMで対面してお話しさせていただいた。宅間さんは「当時にタイムスリップした気分です」と仰った。

とても柔らかな方で、たくさんの力をいただいた。

心から感謝、です。

 

宅間 國博さま

はじめまして

ぼくは東京で空間をつくる会社グリッドフレームで代表をやっております田中稔郎と申します

人生でファンレターなど書いた記憶がありませんが、
このメールはそれにあたるのかもしれません

ぼくが宅間さんの写真に出会ったのは、1991年に遡ります

その頃、ぼくはゼネコンの土木部の社員だったのですが、建築を学びたい、という希望を会社にぶつけると
アメリカの大学院で勉強させていただけることになって、
全く建築の知識のないぼくが出国前に日本で手に入る本を探していたときのことです

ブルータスに「REBIRTH」という写真集の小さな紹介記事が出ており、
錆びたドアの金具がアップで撮られていたのを見て、
すぐに本屋へ買いにいったのを憶えています

ぼくにとっては、それは建築の本だったんです

結局、日本からは3冊写真集を送ったのですが、
アメリカで建築を学びながら開いたのは「REBIRTH」だけでした

ぼくが建築を学んだ場所は
ニューヨーク州バッファローという、鉄工場で栄えた後に廃れてしまった寒い町で
町中がスクラップヤードのような印象がありました

ほとんどの学生たちは、そんなバッファローを嫌っていましたが、
ぼくにとっては、最高の学びの場でした

実際に、たくさんの鉄のスクラップヤードがあって、
ぼくは建築模型の材料を探すためにスクラップヤードへ行って
スクラップの山を漁るのが大好きでした

そう「REBIRTH」のあのイメージを探しながら、
ぼくの好奇心は探究心になり、
かたちを持つものに変化していきました

グリッドフレームの「ORIGINAL CONCEPT」というページに、
そのときに書いた論文の一部を載せています
(冒頭に「REBIRTH」が出てきます)

https://gridframe.co.jp/original-concept/

ぼくはずっと「REBIRTH」に出てくるような
時間が手を加えてくれたものたちを素材として
空間をつくっていくことを目指しています

でも、そのような素材を集める方法を確立することができずに
20年以上が過ぎました

しかし、ここに来てようやく足掛かりとなる収集システムを構築して
これから本当にやりたかったことを進めていける気がしているところです

思えば、今こうして希望を抱いて生きていけるのも
宅間さんの「REBIRTH」がぼくの背中を押してくれたおかげだと思っています

深く感謝しております

そんな人間がいることを、知っていただきたくてメールいたしました


少し秋めいてきたこの頃です


お体、ご自愛ください

 

2020年9月13日 田中稔

 

 

田中様へ

うれしいメールありがとうございます!!

幻の写真集「REBIRTH」を知ってる人がいてびっくりしましたよ。

あの写真集は自費出版だったのですが
250冊しか売れなくて、数百万円の赤字を出しました(笑)

田中さんは購入してくださった250人の中の1人です。


グリッドフレームの「ORIGINAL CONCEPT」というページに、
紹介してくださってありがとうございます。


実はですね、2017年に「REBIRTH」を「ペンキのキセキ」というタイトルで
新しい写真も加えて新写真集として出版したのです。

女性に見て欲しいと思ったので、カワイイタイトルにしたのですが
やっぱり売れませんでした(笑)

まぁ、自分へのプレゼントみたいなものです。


この「ペンキのキセキ」を、今回のメールのお礼に
田中さんに1冊送りますので楽しみにしてください。
以前はできなかった色をデジタル加工で再現できたので、色は美しいですよ。

 

田中さんのメールのおかげで
自分のコアな世界観に「いいね」をしてくれる人って
世の中に必ずいるんだなぁ〜ということに感動しています。

本当にうれしいメールありがとうございます。

いつか、お会いできるのを楽しみにしています。


2020年9月14日 宅間國博

 

空間アーティストと住宅リノベーション

父親が亡くなってから、10年が経とうとしている。1956年に大企業に入社して、高度経済成長、オイルショック、バブル、そして、その崩壊の激動期を会社員として駆け抜けた父は、退職後すぐ陶芸を始めた。陶芸にかける情熱の高さは遠くに住んでいるぼくにも伝わってきた。

 

父は器用な人だったが、作品に洗練は感じられない。しかし、父がつくるどの器も温かかった。それは、父にしか出せない温かさだった。もちろん、それを「ここがこうだから」とか説明なんかできない。

 

父はもし違う時代に生まれたら、ぼくのようなものづくりの仕事をしたかったのだと思う。交通事故で亡くなった最後の日は、会社のOB会があって、東京でものづくりを仕事にしているぼくの話を嬉しそうに語っていた、と聞いた。事故はその帰りに起こった。

 

この時代だって、ものづくりの仕事を続けていくのは楽じゃない。もし、父が30年若くなって他人として存在したとしたら、そして、ぼくと出会って「一緒に会社をやろう」ということになったら、一緒に徹夜して、喜んだり悲しんだり、ケンカしたり肩を叩きあったりして、ときどきこれからの夢を語り合っただろうな、と思う。

 

ぼくらが自分たちのことを「空間アーティスト」と呼び続けてきたのは、皆が優秀な職人であるよりは、向こう見ずな旅人でありたいと思うからだ。

 

そして、亡くなった父も向こう見ずな旅人でいたい人だった。

 

今年からぼくらの仕事として、住宅リノベーションを主軸に据えた。父のように、「つくりたい」というエネルギーを秘めた人々の家をぜひつくらせていただきたい。もちろん、「つくりたい」はものづくりに限らない。

 

資本主義が推し進めてきた誰にも均等な快適・簡単・便利住宅を、依頼主にしか出せない空気をぼくらにしかやれないやり方で醸し出す住宅に変えていきたい。そして、そんなつくり方をする小さな空間アーティスト集団が次々に生まれていけばよいと思う。

 

そんなふうに変わっていくならば、この国はどんどん愉しくなっていくんじゃないだろうか?

 

 

「棲まい」づくりとしての住宅リノベーション

「TOKYO STYLE」という写真集がある。1996年、アメリカの大学で建築を学んで帰ってきた直後、書店で吸い寄せられた本だ。

 
「TOKYO STYLE」(都築響一/京都書院)

 
アパートなどの片付けられていない部屋の写真群は、まるで日本の大学時代に友達を訪ねたら、「ちょっとコンビニ行ってくる」とそいつが不在になった瞬間の部屋を眺めるようで、どの部屋にもそれぞれの感傷が巣食っていると言おうか、しばらく黙ってそこに佇んでいたい気分になる。魅力的だ。
 

「すむ」の漢字には、「住む」と「棲む」があって、前者は人間、後者は動物に使われる、という。この写真集で表れているのは、「棲む」の方かもしれない。人間の動物的側面が強く感じられる。
 
整頓された部屋を散らかった部屋よりも優位に置く、という人間の一般的認識はたぶん動物にはない。人間だって必ずしも整頓された部屋が散らかった部屋よりも暮らしやすいわけではないだろう。空間にカオスが見えるとき、人間の動物的能力が研ぎ澄まされる。それは「棲まい」という言葉の方がふさわしい。
 
一般に大学で教えられる「建築」は、この写真集とは別世界である。建築と言えば、もっと「立派な」もののことを指すのが世間一般の常識でもある。ぼくはそんな「建築」や「デザイン」に魅かれながらも、人間的には「棲まい」に暮らす人々に強く共感していた。つまり、いわゆる「建築」やら「デザイン」やらには目もくれない手ごわい人間たちに。
 

自分の共感する人のために、自分が良いと信じる空間をつくりたい。その当たり前の願いが叶うのはとても困難に感じられた。なぜなら、「TOKYO STYLE」に載っている「棲まい」は、全てそれぞれの部屋の持ち主が自分でつくった空間であり、他人に依頼してつくられた空間は一枚もないからだ。ぼくは、この写真集に魅入られながら、同時に暗澹たる気持ちになった。「棲まい」はつくれない、と。
 
その後、ぼくはGRIDFRAMEを立ち上げ、20年以上に亘って店舗空間づくり中心の仕事をすることになる。店舗のメインターゲットは常にカスタマーであり、依頼主ではない。依頼主とは、同じ方向を見ることになる。第三者の心をイメージしながら、お互いを補強する。だから、原則として、力を妨げるものがない。持てる力を出し切ることができる。店舗をつくることは、ぼくが矛盾を感じることなく仕事を続けていくための戦略でもあった。
 
上に書いたように、住宅はつくれないと思っていた。店舗空間とは違い、依頼主のための空間づくりは、同じ方向を見るというより、向き合うことになるのではないか、と。そうなると、どのような依頼主であろうと必然的にぶつかり合いが生じる。力のベクトルは互いに先をへし折られることを繰り返すのではないか。
 
そう考えている中で昨年、住宅リノベーションの依頼をいただいた。依頼主にお会いするまで、ぼくらは受けることは難しいかもしれない、と思っていた。
 
 
依頼主にいつものようにインタビューさせていただいたとき、衝撃を受けた。この依頼主は彼の生きる根幹に関わるような「棲まい」を求めていらっしゃることが分かったのだ。そして、「中途半端なデザインにしたくないから、お任せします」と。そのことが、どんなにぼくを勇気づけてくれたか、分からない。
 

ぼくが「棲まい」をつくるように依頼されたのは、お話をした短い時間の中で、依頼主と同じ方向を見ていることを直感してくださった、ということだ。そして今、施工を終えて、ぼくらが集団として、依頼主と一体化しながら持てる力を出し切ることができた、という感触を持っている。
 
依頼主がご自身として生きるための空間づくり。そこには、カオスが必要だ。空間を引き渡したときの依頼主の言葉を借りれば、「空間に入ってきたときに、自然に押し黙ってしまう」ような類いのカオスが。
 

ピラミッド

「肉食動物ー草食動物ー植物」の食物連鎖は、個体数の関係で、肉食動物を頂点としたピラミッド型に描かれる。

 

このピラミッドの頂点にあるライオンを「百獣の王」と呼ぶように、暗黙の裡に、上位に在るものほど羨まれる存在とされ、下位に在るものほど蔑まれる存在とされる。

 

だが、これは人間社会をモデルとする人間の勝手な解釈であり、実際は上下などあるはずがない。天敵がいない肉食動物であったとしても、狩りをして食わねばならない、という厳しい条件の下に生きている限り、見渡す限り緑の草原にいる草食動物より彼らが優位にあると誰が言えるだろうか?少なくとも「幸せ」を基準にすれば、上下は言えない。

 

人間社会のモデルは「支配者ー被支配者」のピラミッドが描かれることがある。人間の活動は、「生産」と「消費」にスポットが当たることが多いが、「分解」がなければ活動を継続することはできない。「分解」を担うのはピラミッドの底辺にある者たち、という視点が歴史的に存在した。

 

今、「生産」「消費」「分解」をフラットに並べて「分解」にもスポットを当てることで、歴史的な価値観を変えて、世界にさまざまな変化をもたらすことができるかもしれない。

 

SOTOCHIKUもその一つの活動と位置付けている。