マラソンの走り方についてネットで調べていたら、「腰を高くして走るイメージをすれば15分はタイムを縮めることができる」と書いてあった。つまり、4時間の人は3時間45分で走れることになる。
早速試してみると、そうイメージするだけで走り方が変わる。タイムも1キロ20秒くらい早くなった。マラソンの距離で計算すると、14分強縮まることになる。
すごい!ぴったりだ。
STUDIO COOCAの関根さんと出会ってから、もう22年が過ぎた。
関根さんは障害福祉施設の代表だ。利用者たちは絵を描くなどして、それぞれが自由に過ごしている。
ここから生まれる、すばらしい作品も多く見てきた。見る者の想像力を掻き立てて、そこから無限の可能性を秘めたストーリーが生まれる。
作品もそうだが、利用者自身も想像力を掻き立てるアートそのものかもしれない。
暴力沙汰などにならない限り、利用者は自由に過ごす。
みんな心地よく過ごしているように見える。
そのベースになるのは障碍者に対して国から出るベーシックインカム的なお金だ。
コロナ後の世界を見ようとするとき、社会はSTUDIO COOCAの世界の存在を無視することはできないと感じている。
コロナ前から言われているのは、今後AIによって人間が生きるために必要なものすべてが計画的に生産できるようになるなら、働く必要のある人数は、世界中でほんの一握りになるんじゃないか、という予想だ。
ならば、人類のほとんどは、ベーシックインカムを受給して、あまりお金はないけれど生産せずに過ごす日々がやってくる、と。
コロナ後、都市人口は減っていくのかどうかわからないけれど、爆発的な人口増加問題を解決する方法を考えることができれば、さしあたって、生産しない人口が増えてもよいのではないか。
生産しない時間を介護に回すことができるだろう。家族では人数が足りなくても、社会全体で介護していくことを当たり前とする。
全ての生物が「守る」ことを経験するために生まれてきた、というぼくの考えからすれば、人類はその目標へ近づいているのかもしれない。
毎週日曜日に通う畑は、100㎡のようやく半分が埋まった。
あと半分、何を植えるか?種苗店で苗を選ぶのが愉しい。
とはいえ、もう植える時期はピークを越えてしまったようで、種類がなくなってきた。
今日は、トマトとナス。
なんてベタな選択なんだろう。
でも、この二つが畑にあると、落ち着く。
ぼくらは「他人様に迷惑をかけないように生きなさい」と教えられて育てられた。だから、誰かが何かの困難を抱えて自分ではどうしようもなくなったら、「家族でなんとかする」ことで乗り切るしかない、と信じて生きてきた。
でも、核家族化が進んでいる今、少ない家族で助け合えることには限界があるし、元々、頼れる家族がいない人もたくさんいる。困難を抱えた人を簡単に「孤立」させてしまう社会になってしまっている。孤立が生んだ悲しいニュースが後を絶たないのが今の社会だ。
人を孤立から救うには、「他人様に迷惑をかける」というハードルをどんどん下げていって、気楽に「助けて!」って言える社会をつくることが大事だ。
では、助ける側はどうか?
今自分は関係ないと思っている一般の人がどれだけ助ける側に回れるか、で今後の社会の「孤立」を生む数をで減らしていけるはずだ。
ぼくらは「助けて!」と言ってはいけないと育てられたが、幸い、「助けてはいけない」という教育は誰も受けていない。
例えば、道を歩いているときに困っている人に道を尋ねられて立ち止まったら、躊躇なくその人を案内する人が多いように思う。そのときに多少の予定が入っていても、そうしてしまう。基本的に、人は突然出会う偶然を歓迎する生き物だと思うし、目の前のその人に喜んでもらえるならもっとうれしい。どこかワクワクする。
だが、こういうことを役割として分担されたとすれば、事象はまったく変わってくる。ぼくだったら、残念なことに、ワクワクする気持ちが減ってしまう。大変だなあ、という思いが頭をもたげてくる。ゆえに今のところ、どんなボランティアにも登録するつもりはない。
そういう心が一般的なものだという確信はない。だが、「助けてあげます」というプラカードを持つよりも、「助けて!」が先行した方が、どうやら、ウィンウィンの関係は成立しやすそうな気がする。
システムの枠にハメられない方が、人は「助ける」という行為を愉しめる生き物だとすれば、それは一般の人が助ける側に回るための一つの大きなカギになりうるのではないか?
「助けて!」と叫ぶにはとてつもない勇気がいる。ーーーそれでも、絶対、叫んでみる価値がある。
報道が真実を伝えようとしないことに、「そんなもんだろう」と無関心で済ませてきたのは、ぼくだけではないだろう。日本人の特徴のひとつではないか。
ぼくの場合は、二つの理由からだ。
・一つ一つはあやしいが、社会全体としては性善説を信じているから。
・自分のこととして考えようとしない、という怠惰。
ぼくはそれなりに忙しい状況下におかれていて、ぼくの専門のことはしっかりやるから、専門外のことは「できれば、他の人がやってくれ」という気持ちもある。
そのうえで、「世の中で言われていることには嘘が多い」という認識でやってきたから、うわべの情報はあまり気にすることがない。
新聞もテレビもほぼシャットアウトして、直接見聞きすることと信じられる発信者からの情報のみで、頭の中に社会の構造をつくってきた。
それだと、いわゆるホットな話題に疎くなるが、それはまあよい。
だが、突然コロナ禍の時代になって、先を予測する必要が生じている今、直接見聞きすることと信じられる発信者からの情報によるインプットを強化する必要を感じて、最近は本を読む時間とYouTubeを観る時間が増えている。
子供が夢を持てるように、という目標を持って自分が行動するためだ。
いつの世も、子供たちが「生まれてきてよかった」と思える世の中をつくるのが人間の生きる意味だ。
YouTubeで安冨歩の日本近代史講義を見ている。おもしろい。
戦国時代は、世俗権力の争いだけでなく、宗教勢力VS世俗権力という構図もあったそうだ。その最終決戦が「一向一揆」だという。
一向宗とは浄土真宗本願寺教団のことで、ぼくの家も浄土真宗らしいが何も知らないし、何も教えられていない。
1580年に信長との抗争に敗れて以来、宗教は端っこに追いやられて、この国では世俗的なことが圧倒的に重要だという認識になった。
現在の「クリスマスを祝い、正月に神社で参拝するという、宗教なんてどうでもいいという風潮」はここから生まれていると、安冨氏は言う。
家康が本願寺を東と西に分裂させたという。徹底して排除することなく、分裂させる。権力がやることは世界中同じだ。
SOTOCHIKUの母体GRIDFRAMEは創業以来20年以上に亘って、
「予定不調和を取り入れて生きていることを実感できる空間」をコンセプトとして、
住宅リノベーションや店舗空間づくりを手がけてきました。
50年以上前、伴野一六という人は、海辺に漂着したものだけで
とても魅力的な自邸をつくったそうです。
ぼくたちは、SOTOCHIKUによって、「予定不調和」をより進めて、
海辺の漂着物のようにさまざまな遠い場所から集まる
想像もつかないモノたちに出会いながら、
それらを素材として新しい空間をつくっていくことをめざしています。
コロナ後の世界は「共存」がテーマになると考えています。
ウィルスも含めて、出会う人、モノ、コトのひとつひとつを大切に思い、
それらと共に生きようとする。
そんな人々がつくる新しい世界のあり方を示す豊かな表象として、
今後たくさんのSOTOCHIKU空間がつくられていくことを心から願っています。
千葉の畑で作業。
村上さんが耕し方を教えてくださる。
「鍬は重い方がいい。重いと力を使わなくても、振り子のように土を掘ることができる。」
「私はほとんど体力を使わなくなった。」
2008年。イタリア。
貧民街から抜け出したいと思っても、絡めとられてしまう。
真っ直ぐな目をした子供も、やがて悪事に染まっていく。
自分たちの環境を破壊しながら、なんとか食いつないでいくことしかできない。
そんな場所では、命は重さを持たない。
外のきれいな世界に生きている者たちは、彼らを利用するだけだ。
未だにこんな世界がそこらじゅうに在る。
コロナよ、こんな世界をどうする?
伴野一六邸は、海辺に漂着したモノを材料だけでつくった家だという。
その家を見ずとも、想像しただけで素敵だ。これを聞いた誰もがうっとりとする。
そのようなものづくりの方法はブリコラージュと呼ばれる。
ブリコラージュは、理論や設計図に基づいて物を作る「設計」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作ることである。(wikipedia)
そうそう、これがぼくが30年間やりたかったことで、SOTOCHIKUも海辺に漂着するように、遠いところから予測できないものがぼくらのもとへやってくる仕組みづくりから始めようとしている。
が、伴野邸の外観写真を見たスタッフたちは、「うーん、思っていたのと違いました・・・」とがっかりした表情を見せた。
できあがったものは、バラックだ。言ってみれば、スラム街の建物そのものだ。
ぼくは好きだが、同時にほぼすべての人が、このような家には住みたくない、と思うことも知っている。
その場で手に入るモノに徹底するとこうなる。
だが、新しく一からつくる部分と組み合わせれば、ほぼすべての人が求めるような空間になることも知っている。
1998年にグリッドフレームを立ち上げたとき、その拠点は江東区枝川のリサイクルショップだった。
そのオーナーだったミミさんが、失礼ながらボロボロの古い倉庫の2階の広いスペースを月5万円で貸してくれた。
そこは、フリーター、アーティストの溜まり場になっていて、やはり場所を借りて制作活動をしている人もいた。
ぼくは、会社の立ち上げ当初で一人でモノづくりをしていたが、ある日ミミさんに呼ばれた。
「実は最近、あなたのお祖父さんとお話してるの」と言う。
ぼくの祖父はぼくが16歳のときに他界していて、そのときのぼくは33歳だったが、ミミさんはそういう力がある人なんだろう、と思ってあまり驚かなかった記憶がある。
ミミさんは、そういう不思議な雰囲気を醸し出している人だった。
「実は、あなたの親戚の若者のことをお祖父さんはすごく心配してるの。あなたに会ってやってくれないかって。」
ミミさんが言っているのは彼のことだろう、とすぐにピンときた。でも、居場所は知らない。
「探すのを手伝えるって言ってる。」とミミさんが言った。そこで少し耳を澄ますようなしぐさをして、「住所は、西・・・っていう文字から始まるって。」
帰宅後、実家の熊本に電話して彼の住所を、彼の親に尋ねてもらうと「西新宿にいる」と。
彼とは熊本で会ったのが最後だった。「久しぶりに会わない?」と電話をして、ご飯を食べた。
彼はフリーターをやっているという。「じゃ、俺の会社で働かない?まだ決まった収入源はないから、自分の食い扶持は自分で稼げ、って会社だけど。」
そんなふうにグリッドフレームのスタッフ第一号は決まった。
ミミさんは彼の名前を「信十朗」と名付け、彼も喜んでその名前で名刺をつくった。
信十朗は友人たちとアパートで共同生活をしていたが、彼の家に問題があることをミミさんが知っていた。家にいると、体の具合が悪かったり、何か嫌なにおいが漂ったりしていたらしい。そのままだと、悪いことが起きる、と。
そのアパートでは、過去に母子心中があり、その霊がまだそこにあって、信十朗たちの生活の邪魔をしているという。ある夜、ミミさんは霊を祓う儀式をリサイクルショップの敷地内でやってくれた。
なんとまあ、大迫力だった。信十朗が泣き出したくらいだ。
その後、信十朗の調子はよくなった。ひとまず、祖父も安心したと思う。
他にもいろんなエピソードがある。とてもとても稀有な人だった。
そのミミさんが、死刑囚の永山則夫氏と獄中結婚した人だとは本人からも聞いていた。
ミミさんは彼を「永山くん」と呼んでいた。ぼくはそれ以上、そのことを知ろうとはしなかった。
永山則夫氏の死刑執行は1997年だったことを、今日知った。スタッフとの打合せの中で、ミミさんの話が出てきたために、検索してみたのだ。
まだその死から1年も経たない中で、ぼくはミミさんに会ったのだということを知った。永山氏とミミさんの人生は、ぼくら普通の人では到底想像することができないくらいに過酷を極めていることを知った。
その不思議な霊能力も、その中で身についたものだろう。
アメリカにいたミミさんが、獄中の永山氏に初めて手紙を書いたときも、きっとミミさんには手に取るように永山氏の状態を見通すことができたのだろう。
ミミさんは、系譜図を見るだけで、この人は二つ目、この人は三つ目、あら、この人は一つ目・・・と人の洞察力なるものを言い当てる人だった。ぼくの家系図を書かされて、彼女がそのように先祖の名前を指でなぞりながらつぶやいたのだ。
二つ目とは、見た目通り、目が二つある人。見たままに、世界を見ることができる。
三つ目とは、二つの目の他に、心眼を持っている人。私の解釈では、洞察力の高い人だ。
一つ目とは、逆に、世界を一方向からしか見れない人。目は二つあるはずなのに。
人を三つに分けることができるかどうかは、ぼくには分からない。ぼくは、ミミさんではないから。
しかし、どんな罪を犯したとしても、ミミさんは死刑囚・永山則夫氏の魂が尊く美しいものであることを揺らぐことなく信じることができる人だったのは明らかだ。
ミミさんの信じる力がなかったら、永山則夫氏の、第2審での無期懲役への減刑はなかっただろう。それが最終審で理不尽によって覆されたとしても。
ミミさんのような能力はなくても、信じる力は持つことができるはずだ。
ミミさんのような揺るぎない信念を、ぼくは持っているだろうか?
「どんなに努力しても、成功・失敗はそれとは関係なく向こうからやってくる。」
でも、努力をすることが大切なのは、失敗したときに、「あのときもっとがんばればよかった」と思う必要がないからだ、と言う。
努力することは、成功するためではない。自分を守るためだ。そして、どんな状況になっても余計な念に捕らわれず、そのときに他人を守るために前を向くためだ。