コロナについては、未来を予測するために、努めて情報を得ようとしてきたが、1年後は人々の生活がどうなるかを予測することができない。
(つづく)
コロナについては、未来を予測するために、努めて情報を得ようとしてきたが、1年後は人々の生活がどうなるかを予測することができない。
(つづく)
今日は現地の計測に。
日曜日だが、ほぼ全員が諏訪へ。
帰りの高速でK君がかっ飛ばして、警察に捕まる。
まあよい。かっ飛ばしすぎていることを指摘しても一向にスピードを緩めようとしないK君に、身の危険を感じていたところだったから、実はホッとした。
その後は、ゆっくりマイペースでぼくが運転。
安全第一。これでよかったのだ。
「これまでこうだったから、絶対これからもこうだ」という論理でしか話をしない人間とは、共通言語を持たない。
つまり、会話をしても意味がない。
別の人種だと思うしかない。
コロナ騒動のおかげで視野は広がっている。
情報が多すぎて混乱しているが、ぼくらは日本人として生まれたことをどう思うか、ということをそれぞれの人が自問していることだろう。
現在、世界中がコロナの影響を抑え込むことに夢中になっているが、コロナ以外の不幸や災難には目が向かなくなっている感がある。
今回、感染を防ぐために仕事を止められていることで、金銭的に追い詰められている人も多いはずだが、そのことで自殺する人数は、コロナ感染による死亡者数をはるかに超えるだろうと言われている。
また、コロナ感染者のために他の疾病の患者がICUが使えないで、死に至るケースは確実にあるだろう。
国は諸外国からの目を気にして、コロナの感染者数と死亡者数を最も気にしているように映るが、それが「よい国」だろうか?
スウェーデンのように、集団免疫を獲得するためにロックダウンしない国の自殺率はどうなのか?トータルとしての死者数、経済の状況はどうか?
半年後、1年後、2年後、どの国が最も輝いているか?
ぼくらの日本はどうなのだろう?
例えば、ぼくら家族にとって、ぬいぐるみのモンキチはモノ以上の存在であることは明らかで、きっと誰にもそういった存在があるはずだ。(つづく)
文化を目的として掲げても、文化は生まれない。
生物として生き残るために、社会生活が変化を余儀なくされたときに、懸命に現状を打開する局面で文化は生まれてきた。
だから、文化は結果として生まれる。
例えば、14世紀にペストが流行したとき、キリスト教が何もできなかったがために、中世が終わり、科学や芸術が急速に花開いたルネッサンス時代へ移行した。
文化を生み出したいのであれば、文化の創造に結果としてつながる、より動物的な欲求を喚起する仕掛けをつくらねばならない。
SOTOCHIKUも、捨てるしかないと思っていたものが換金される可能性にどのくらいの方が反応してくださるのか、という動物的な欲求を動機とし、結果として文化を高めていくことを意図している。
だがきっと実践のためには、文化の創造につながるという見通しなど、黙っていた方がよいのだ。
2013年、大阪の文の里商店街を復興させようと200枚のポスターがつくられたそうだ。
このポスターが有名になり、ポスターの総選挙が開催され、グランプリになった漬物屋さんはポスター制作中に閉店したらしい。
そのポスターのコピー、「ポスター?はよつくってや。死ぬで。」がいかにも大阪っぽくて笑ってしまう。おじいちゃんがそこに立っているようだ。
他にも傑作が並ぶ。どれも笑える。
きっとかなりの動員効果もあっただろう。
笑いが人を動かす。それは、笑いの中に背景にある様々なことが含まれているからだ。
家族3人で畑を耕す作業。防風林に囲まれた丘の上の農園。午後遅くなったため、ぼくら以外に誰もいない。
100㎡ほどの畑を、ぼくがスコップで掘り起こし、妻が鍬でならし、陽向が雑草を取る。
雨がやってきた。静かな雨だ。火照る体をちょうどよく冷やしてくれる。
さあ、これから何を植えようか?
YouTube・The First Takeで女王蜂のアヴが「火炎」を歌うのを見て、戦慄を覚えた。
「何も封じ込められることのない世界へ」
GFのHPのタイトルをそう変えた。
歌詞の中に「Why so serious?」とある。
周囲の冷静を装った人間たちに、そう言われながら殺されていくものが、この世には山のようにあるのだ。
それは、今のままで変わるまいとする人間たちが、変えようとする力を封じ込めるための呪いの言葉だ。
呪いの言葉を発している者はそのことに気づいていない。
封じ込めることができない火炎のように、消された後も思いは残る。
「Party is over それでも踊りたかった」
コロナ禍の時代になって、生き残りのためには哲学はいらない、という人がいる。
だが、そんな人は、きっとコロナ前だって同じことを言っていたに違いない。哲学はよく分からないから無用だ、と。
確かにグローバル資本主義の下には、哲学は必要なものと見做されてこなかった。
そうして、スピリットなき「とりかえのきく世界」が成立してしまったのだ。
そして、その世界がいとも簡単に壊れてしまったのは、予定調和が崩れたからだ。
哲学をいらないという人は、予定調和的に物事を見る人であり、その人たちが信じていた世界が今、崩壊しているのだ。
今、哲学を持たなければ、ぼくらは未来へ手渡すバトンを失ってしまう。