gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ツノ対アゴ

作・絵 高畠那生。

 

ライバル関係にあるカブトムシとクワガタが、それぞれのツノとアゴをお互いに一度取り替えてみたいと思っていて、実際に交換してみた、という紙芝居。

 

カブトムシはクワガタのアゴで、ふわふわのケーキをギューッと力いっぱい噛んでみたい。

 

クワガタはカブトムシのツノで、子供たちにポーンとボールを高く飛ばして遊んでやりたい。

 

それを実現して大満足で、お互い元に戻して、それでも、やっぱり自分が生まれつき持っているモノが最高だ、と思いながら、お互いの存在に感謝する、というお話。

 

とてもポジティブで秀逸だ。

 

なぜこのお話について書いたかというと、中学3年生の頃、給食にふわふわの食パンが出だした頃を思い出したからだ。

 

ぼくは、これをギューッと噛みたいという妄想を確か高校一年くらいまで持ち続けていた。ふわふわを噛んだときの食感と香りが一体となった夢の中にいるような幸福感。

 

作者もこんな経験を共有しているのかもしれない。そう思うとうれしかったのだ。

 

 

大谷石採掘場跡

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勝ち負けをいうのは好きではないけれど、負けを認めざるを得ないときがある。

新しい空間をつくることがぼくらの仕事だが、人間が意図的につくるモノばかりで構成された空間にはどうしても限界がある、と感じている。

 

人間は生命をつくれない。そのことに似ているかもしれない。いや、もし、生命をつくれるとしても、過去の時間の蓄積をつくることはできない。

 

過去の時間の蓄積がなければ、ぼくらの生はただの点であるしかなく、悠久の時間をつなぐ線となりえない。自分の生が点として孤独に宙に浮いているのを想像するとき、ぼくらは寂しくないだろうか。

 

 


数日前、大谷資料館の採掘場跡を訪れその空間に圧倒されたとき、「ぼくにはつくれない」と負けを認めた。負けを認めるということには、悔しさと同時に、清々しさと感動が伴う。

 

一日4万回ツルハシを振るった石切り職人たちの残像がそこにあった。150キロの石を一人で抱えて、運び出す労働者たちの残像がそこにあった。彼らにこの空間をつくろうという意図があるはずもない。誰も意図しない中で、その空間は生成された。

 

「つくる」モノは、「なる」モノに決して勝てない。ぼくはそう感じている。

 

機械が導入される1960年まで40年以上にも亘って、日々、このような作業がそこで繰り返されてきた。その汗や息づかいをこの巨大な洞穴から感じ取れることに感謝したい。

 

 


それでも人間には「つくる」ことしかできない。だからぼくはSOTOCHIKUを始めた。人間の意図の外にある何かが表れたモノを素材として空間をつくる。空間づくりに「つくる」モノだけでなく、「なる」モノを導入するために。

破壊

菅首相の辞任に失望しているのは、彼に破壊を期待していたからだ。

 

彼の国民に対する冷徹も、昭和から続いてきて今という時代に合わなくなっている旧体制を破壊してくれるなら、すべて耐えていこう、と覚悟を決めていた。

 

今、必要なことは、悪いモノの破壊だ。良いモノは引き継げばよい。

 

良いモノと悪いモノが分けられることなく破壊されたとしても、良いモノの欠片を拾い集めて引き継ぐことはできる。

 

古くからの利権を壊す。取って代わるものが新しい利権でないことを祈るが、もしまた利権が現れたら、早々とまた壊せばよい。新陳代謝をつくることが政治だと思う。

 

長期政権は、利権を固定する。それを安定と呼ぶか、腐敗と呼ぶか。

 

積み重なる問題を隠し続けてだらだらとなだらかに総崩れしていく政権を終わらせる意志を、名前が挙がっている誰からも感じ取れないとすれば、どうすればよいのか?

 

 

cage ⇔ stage

暗闇にひとつ光を点す

 

空間は内部と外部に分かたれる

 

光の中で創造に挑む

 

光は自分になる

 

それは自らが自らを内部へ閉じ込める行為

 

創造とは

閉じられたcageから開かれたstageへ境界を貫く閃光

 

 

hostとguestが、役者と観客が、流動的に入れ替わる経験

 

これをあらゆるパブリック空間で成立させる

 

なぜなら、「多様な私というものが保証されるのがパブリックという空間」だから・・・

 

 

資本主義のcageと無貨幣主義のstageを自由に行き来できる世界へ

 

 

共存関係

人間と犬の共生関係によって、人間と犬は数を急激に数を増やしてきた。犬を連れて歩くことで、人間を攻撃する外敵が減ったため生きていくのに有利になったのだ。

 

人間は森に籠ることなく、平野へ出て生きることができるようになった。

 

競争よりも共生。だが、他の種に比べて、有利性が卓越しすぎても絶滅の道を辿る。適度に有利性が高いものが、数を増やし続ける。

 

C.1.2という新しい変異種が南アフリカで発生したらしい。感染力が高く、致死率も高い。そして、現在のワクチンも効かない可能性が高いという。

 

デルタ型を越えて、C.1.2が世界を席巻するかもしれない。世界にとって暗いニュースだが、世の中の様子がガラッと変わるのが早まったということであれば、そこに希望を見い出している者としては急がねばならない。

 

一日一日を大事に、なんとか仕事を繋げてサバイバルしつつ、上記の共生関係を同じ未来を共有する人たちと構築することに努めよう。

 

モノ不足

デルタ株の影響で世界の工業生産の3割以上を占める東南アジア地域の工場の多くがストップしている。

 

これから物価が高騰し、やがては市場からモノがなくなっていくかもしれないという。

 

今のうちにこれから必要なものは手に入れておいた方がよいだろう。

 

新しくモノがつくられなくなれば、古いモノを生かすSOTOCHIKU的な活動はごく当たり前のことになっていくかもしれない。

 

つまり、選択肢の一つではなく、必然となっていくかもしれない。

 

新しいモノによってどんどん更新されていく世界という前提が崩れようとしているのだ。

 

先駆けて始めることに、より重さを感じる。

 

ぼくらは、モノと一対一で向き合う世界に突入しようとしている。

 

大谷石の石切場

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大谷資料館を訪ねた。

 

さまざまな映画やMVの撮影に使われてきた場所らしいので、ぼくより詳しい人もたくさんいるだろうが、地下の採石場のスケールと質感は日本の常識を超えていた。

 

外から入ってくる光、天井から滴る露、濡れた地面、人力で規則的に削られた石壁。。。

 

色のついた光で演出されているのは余計だ。そして、いくつかのアート作品もいらないように思う。

 

石切職人たちは、一個の大谷石を切り出すために、ツルハシを3000回以上も振るい、一日に12個の石を掘り出す。一つ150キロの石を一人で抱えて運び出す。それが彼らの1日の仕事、・・・なんとも過酷だ。

 

当時の現実を感じ取ることと、空間の美しさを感受することに矛盾はないか?

 

SOTOCHIKU的な視点で、この空間はどのようにあるべきかを考えている。

 

 

致死性デルタ型病毒

一月万冊で、安冨歩氏と清水有高氏が新型コロナウィルスを表題のように名前を変えた方がよい、と言っている。

 

確かにこのように呼べば、もう電車に乗る気はしなくなる。

 

街角でのランダムサンプリングで行ったPCR検査では、すでに100人に1人が陽性になっているらしい。その勢いで考えると、東京の1日感染者数は3万人くらいではないか、と。

 

デルタ型になり飛沫感染ではなく空気感染になって、追跡調査がほぼできなくなってしまったがために、毎日発表されている新規感染者数は意味をなさない状況にあるのだ。

 

そのような状況でありながら、連日の報道は感染者数は減っている、と繰り返す。

 

選挙が近づいているからだ。

 

政治家たちの思惑とは関係なく、病毒は広がり続け、半年後には社会は違う様相を呈している、という。

 

そのときに向けて、ぼくたちは準備を進めていかねばならない。

 

 

蔵の土壁

SOTOCHIKU素材として、蔵を寄付してくださる人が見つかった。

 

土壁を切り取り、遠い場所にある新しい空間へ移設する。時の蓄積を新しい空間に引き継ぐ。

 

そこには、どんな歴史が刻まれているのか?土地の匂いとともに、ストーリーが語られる。

 

ストーリーに満ちた空間。静かに佇むようにそこにいるが、こちらが目を向けると無限に引き出されるストーリー。

 

それは、旅人と出会ったときの会話と同じだ。

 

「ずっと長い旅をされたのですね。」

 

「ええ。あなたの知らない遠い国の話をしましょうか。」

 

 

 

 

映画 二十世紀少年読本

1989年。林海象監督。三上博史

 

学生の頃からたぶん5回は観た懐かしい映画。

 

サーカスという生身の体を使った実力勝負の世界で、人知れず稽古に励む身寄りのない兄弟。兄は、稽古中のケガで花形である空中ブランコを諦め、ひとりサーカス小屋を出ていく。

 

今なら大道芸の世界が最も近いだろう。サーカス小屋を見ることはもうほとんどない。生身の体と芸で生計を立てるその生き方にぼくは共感する。

 

しかし、社会的にはとても弱い立場を強いられている。

 

昨今のコロナ騒動の下では、不要不急の烙印を押され、イベントは軒並み中止だ。フリーの立場の人が多いため、生計が立たなくなっている。

 

しかし、元々、誰かの庇護のもとに生きる、ということを拒否する精神が大道芸をめざす原動力になったのだろう。

 

この映画では、主人公である兄は、誰かの庇護のもとに生きることを結果的に拒否し、この世から消える。

 

それは、生身の体と芸の消滅を表す。残されるのは、そんな世界でいいのか???

 

 

SDOTOCHIKUシャルソン 15

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Miki Matsuiさん 三重県四日市市 駅のベンチ

出会うことと別れることは対称ではない。出会いはより偶然的であり、いかなる場所でも起こりうるのに対して、別れは必然的であり、通常、出口で起こる。例えば、駅のような出口で。だから、駅のベンチは寂しい。SOTOCHIKUであれば、なおさら。寄付されたら、SOTOCHIKU素材として使用可。

 

 

SDOTOCHIKUシャルソン 14

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西村修さん 静岡県伊東市 写真館

黒と茶で塗られた木の風化は、その2色の差をあいまいにしながら、自然へ還らせようとするが、ガラスに貼られた凛としたフォントの看板文字が、それを人間世界へ繋ぎとめる。そのバランスが美しい。寄付されたら、SOTOCHIKU素材として使用可。