勝ち負けをいうのは好きではないけれど、負けを認めざるを得ないときがある。
新しい空間をつくることがぼくらの仕事だが、人間が意図的につくるモノばかりで構成された空間にはどうしても限界がある、と感じている。
人間は生命をつくれない。そのことに似ているかもしれない。いや、もし、生命をつくれるとしても、過去の時間の蓄積をつくることはできない。
過去の時間の蓄積がなければ、ぼくらの生はただの点であるしかなく、悠久の時間をつなぐ線となりえない。自分の生が点として孤独に宙に浮いているのを想像するとき、ぼくらは寂しくないだろうか。
数日前、大谷資料館の採掘場跡を訪れその空間に圧倒されたとき、「ぼくにはつくれない」と負けを認めた。負けを認めるということには、悔しさと同時に、清々しさと感動が伴う。
一日4万回ツルハシを振るった石切り職人たちの残像がそこにあった。150キロの石を一人で抱えて、運び出す労働者たちの残像がそこにあった。彼らにこの空間をつくろうという意図があるはずもない。誰も意図しない中で、その空間は生成された。
「つくる」モノは、「なる」モノに決して勝てない。ぼくはそう感じている。
機械が導入される1960年まで40年以上にも亘って、日々、このような作業がそこで繰り返されてきた。その汗や息づかいをこの巨大な洞穴から感じ取れることに感謝したい。
それでも人間には「つくる」ことしかできない。だからぼくはSOTOCHIKUを始めた。人間の意図の外にある何かが表れたモノを素材として空間をつくる。空間づくりに「つくる」モノだけでなく、「なる」モノを導入するために。