家族3人で畑を耕す作業。防風林に囲まれた丘の上の農園。午後遅くなったため、ぼくら以外に誰もいない。
100㎡ほどの畑を、ぼくがスコップで掘り起こし、妻が鍬でならし、陽向が雑草を取る。
雨がやってきた。静かな雨だ。火照る体をちょうどよく冷やしてくれる。
さあ、これから何を植えようか?
家族3人で畑を耕す作業。防風林に囲まれた丘の上の農園。午後遅くなったため、ぼくら以外に誰もいない。
100㎡ほどの畑を、ぼくがスコップで掘り起こし、妻が鍬でならし、陽向が雑草を取る。
雨がやってきた。静かな雨だ。火照る体をちょうどよく冷やしてくれる。
さあ、これから何を植えようか?
YouTube・The First Takeで女王蜂のアヴが「火炎」を歌うのを見て、戦慄を覚えた。
「何も封じ込められることのない世界へ」
GFのHPのタイトルをそう変えた。
歌詞の中に「Why so serious?」とある。
周囲の冷静を装った人間たちに、そう言われながら殺されていくものが、この世には山のようにあるのだ。
それは、今のままで変わるまいとする人間たちが、変えようとする力を封じ込めるための呪いの言葉だ。
呪いの言葉を発している者はそのことに気づいていない。
封じ込めることができない火炎のように、消された後も思いは残る。
「Party is over それでも踊りたかった」
コロナ禍の時代になって、生き残りのためには哲学はいらない、という人がいる。
だが、そんな人は、きっとコロナ前だって同じことを言っていたに違いない。哲学はよく分からないから無用だ、と。
確かにグローバル資本主義の下には、哲学は必要なものと見做されてこなかった。
そうして、スピリットなき「とりかえのきく世界」が成立してしまったのだ。
そして、その世界がいとも簡単に壊れてしまったのは、予定調和が崩れたからだ。
哲学をいらないという人は、予定調和的に物事を見る人であり、その人たちが信じていた世界が今、崩壊しているのだ。
今、哲学を持たなければ、ぼくらは未来へ手渡すバトンを失ってしまう。
緊急事態宣言が5月末まで延長された。なぜ?誰もその理由を説明してくれない。
では、どのような条件がそろえば、緊急事態宣言が解除されるべきか?
信頼できる医師にご意見を伺ってみた。
医師として見れば、宣言が解除されるべきときは、新型コロナにかかってもほとんどの場合死なない、という見通しがついたときだろう、と。例えば、インフルエンザのレベルまで致死率が下がれば、ひとまずぼくたちは安心できる。
その安心感がない中で、みんなが活動を再開したら、死者は激増するかもしれない。(感染者数は検査数が少なすぎて、事実を表しているとは思えない)
今回の宣言の延長は、重症化を抑えるなんらかの方法が見つかるまで待とうとしているのではないのか?
なお、その方のご意見では、政府はマスクを配る代わりに、アビガンを配るべきではないか、と仰っていた。
アビガンが認定を取れるまでには実験や手続きにまだまだ時間がかかる。しかし、緊急事態であるこのタイミングならば、強制ではなく、飲みたい人は飲んでください、という配り方ができるのではないか、と。
もちろん、経済の専門家の目で見れば、別のタイミングがあるだろう。いずれにせよ、政府によってその指標が示されなければ、みんなただダラダラと休んではいられないだろう。
コロナ後の空間はどうなるか?というキーワードで検索すると、隈研吾のインタビュー記事が載っていた。(日経ビジネス)
・・・・・
「誰もが好きな場所で暮らせる」といった自由がテーマとなり、テクノロジーがそれを可能にするのではないでしょうか。
(中略)
今日の技術ならば都市部に通勤しなくてもリモートワークで仕事ができます。今回のコロナ防疫で実際に多くの人が体験し、そのことを理解したはずです。これからは「一極集中主義」と「経済活性化」が一体であるという考え方が成立しなくなります。コロナ禍は20世紀型の構造から脱却するきっかけになるでしょう。働き方や暮らし方などについて、人の意識も変わらざるを得ません。
(中略)
徒歩や自転車で移動できる圏内で働いたり、生活したりするヒューマンスケールのコンパクトシティーが求められるようになるでしょう。
・・・・・
ぼくらの仕事で言えば、工場(工房)で作家的にモノをつくりあげていく部分や現地で空間をアセンブルしていく部分は、なかなかリモートワークというわけにはいかないが、その他、設計・打合せなどについてはできそうだ。
自宅の近くのカフェで働くなどは、今までもときどきやってきたことだ。
社会全体にリモートワークが定着してくれば、建物はずいぶん空いてくるはずだ。そうすれば、広々とした工場を交通の便の良い場所に確保することができる時代になるかもしれない。
オフィスはたまに集まるためのもので、SOHOでかまわない。
職場の執務室のみならず、学校の教室もなくなれば、そこで自然とたきつけられる競争心もなくなるかもしれない。そうして優越感や劣等感が生まれるきっかけがなくなれば、自分の本質に目が向き始めるのではないか?
20世紀から世界を席巻してきたあの均質な空間に身を置く必要がなくなり、この世からそれらが消えていくならば、間違いなく「とりかえのきかない世界」は近づいてくる。
このような時期は、資本主義を牽引してきた個人の欲望は縮小しているのか?
物欲が強いと自覚している人たちも、どちらかと言えば「ものにつかない」という人たちも、きっと「ギリギリのところで必要としているものは何か」を自問しているに違いない。
「自分だけが失う」のと「みんなで失う」のは全然違う。もう少しこの事態が続いたら自殺者が激増する、という心配をする人がいるが、戦時中、食べ物がなくても自殺者が多かったわけではないように、きっと生きようとする力の方が勝るだろう、というのがぼくの予想だ。
そんな経験をしたときに、この世界は変わるかもしれない。
事態が収束して、「ほとんど前と変わらない」「いや以前よりも悪くなった」という人がいるとしても、深層で何かが変わるだろうとぼくは信じる。
ぼくらの生活は、ただ懸命に生きているうちに、いつの間にか時間を刻印されたものに囲まれていて、それらは無意識のうちに居心地をよくしてくれていると同時に、時折目を向けるとそれぞれがかけがえのない過去の記憶をぼくらに呼び起こしてくれます。
残念ながら、建物が寿命を迎えると、時間を刻印されたものたちは通常、全部ごみとなって捨てられてしまいます。
SOTOCHIKUは、それらが捨てられる前に、SOTOCHIKU素材として「寄付」していただくことによって、新しくつくられる空間の素材として活かしていきます。
あなたの人生の刻印は、あなたにとって価値があるだけでなく、みんなを豊かな気持ちにさせてくれる普遍的な力があります。
「あなたが生きた時間には価値がある」
下記はasahi.comの3月12日の記事『新型コロナは「撲滅すべき悪」なのか 人類の歴史に学べ』から転載。長崎大熱帯医学研究所教授の山本太郎氏のインタビュー記事。
・・・・・流行が終わるためには
感染症が人間の社会で定着するには、農耕が本格的に始まって人口が増え、数十万人規模の都市が成立することが必要でした。
私たちは感染症を『撲滅するべき悪』という見方をしがちです。だけど、多くの感染症を抱えている文明と、そうではない文明を比べると前者の方がずっと強靱(きょうじん)だった。16世紀、ピサロ率いる200人足らずのスペイン人によって南米のインカ文明は滅ぼされた。新大陸の人々は、スペイン人が持ち込んだユーラシア大陸の感染症への免疫を、まったく持っていなかったからです
一方でアフリカの植民地化が新大陸ほど一気に進まなかったのは、さまざまな風土病が障壁になったからです。近代西洋医学は植民地の感染症対策として発達した面が強い人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。
人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。
多くの感染症は人類の間に広がるにつれて、潜伏期間が長期化し、弱毒化する傾向があります。病原体のウイルスや細菌にとって人間は大切な宿主。宿主の死は自らの死を意味する。病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していくのです。感染症については撲滅よりも『共生』『共存』を目指す方が望ましいと信じます
感染が広がりつつある現時点では、徹底した感染防止策をとることで、病気の広がる速度を遅くできます。患者の急増を防ぐことで医療にかかる負荷を軽減し、より多くの患者を救えます
さらに言えば、病原体の弱毒化効果も期待できる。新たな宿主を見つけづらい状況では『宿主を大切にする』弱毒の病原体が有利になるからです。感染防止策は『ウイルスとの共生』に至るまでのコストを大きく引き下げます
集団内で一定以上の割合の人が免疫を獲得すれば流行は終わる。今、めざすべきことは、被害を最小限に抑えつつ、私たち人類が集団としての免疫を獲得することです
・・・・・社会にもたらす変化とは
当時の欧州ではペストで働き手が急減したことで、賃金が上昇し、農奴制の崩壊が加速。身分を超えた人材の登用も行われるようになりました。ペストに無力だった教会の権威は失われ、代わって国家の立場が強くなった。こうした変化はペストの流行がなくてもいずれ実現したでしょうが、その時期が大幅に早まった。新型コロナウイルスも同様に、歴史の流れを加速するかもしれません
今回の感染拡大が100年前に起きていれば、『今年は重症の風邪が多いな』という程度で、新型ウイルスの存在さえ気づかずに終わっていたかもしれない。だけど、現代では医学・疫学の発達によって感染の拡大がつぶさに追えるようになった以上、政治も社会も対応せざるを得ません
従来の感染症は多くの犠牲者を出すことで、望むと望まざるとに関わらず社会に変化を促したが、新型コロナウイルスは被害それ自体よりも『感染が広がっている』という情報自体が政治経済や日常生活に大きな影響を与えている。感染症と文明の関係で言えば、従来とは異なる、現代的変化と言えるかもしれません
・・・・・以上、抜粋(ほぼ全文ですが)
以上で述べられていることに、今回のコロナ問題の核心はほとんど書いてあるように思う。
強く生きるということは、ネガティブな相手とも共生できるということだ。相手が何であれ、撲滅を目的としてはいけない。
今回、貨幣経済がどのように影響を受けるか、ぼくには明確にわからないが、国際的な国力がカネでは測れない状況になっている姿を見ることは、ぼくらの世代にとっては初めてのことかもしれない。
命がカネに勝る、という世界の政治家たちの認識を垣間見る瞬間があるとすれば、未来に希望も湧いてくる。
ウィルスもこの世に生まれた出た限りは、その命を尊重すべきだ、という考えを持つことが必要なのかもしれない。もちろん、一方的に元気になってもらっては困る。なんとか人類の存続に影響が出ないように、一緒にやっていこう、と。
害虫に関しても、似たような視線を向けるとよいだろう。生活に実害を与える領域に入ってくれば闘うけれど、領域を侵さない限りは、お互いの生を尊重しよう、と。
共生、共存の思想とはつまり、こういうことなんだろう。これが世界の基本姿勢となれば、人間同士の関係も変わるはずだ。
「多様な『私』というものが保証されるのが、パブリックという空間」ならば、政治は今こそ多様な『私』を保証するときだ。
コロナ状況下でのプレゼンとして、初めてZOOMを使ってクライアントとの遠隔ミーティングを行った。
あらかじめお送りした資料を見ながら行った。音声が途中で聴こえにくくなるなど、ネット環境の不安定さによって多少の問題は生じたけれど、概ねお会いしてのミーティングと変わらない印象だった。
ネットゆえの多少の緊張はあったのかもしれないが、冗談も言えたし、今後慣れていけば問題はなくなっていくだろう。
今後、このプレゼン方法がむしろノーマルになっていくのかもしれない。
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ふりかえれば
通ってきた暗闇は無限な天体のように魅惑的であり
そのすぐ裏側に光を讃える
月は内部と外部を分ける境界
群衆の熱狂は暗闇のすぐ裏側にある
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月の光の螺旋を上り
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まばゆく白い光の中へ
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光の世界は一瞬に過ぎないが
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その記憶が歴史となって残る
scene12
・・・・・
また境界を越えて、光の世界から暗闇へ
気がつけば、また一人で長いトンネルを歩いている
これが最後かもしれない、という覚悟が
神にすら挑めというごとく、
いよいよ夜光のような輝きを増していく
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気がつけば、また一人で長いトンネルを歩いている
自分の限界を超えることだけを考えて、
暗闇の中、一点を見つめて歩き続ける
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そうすれば、前方に上から微かな光が降り注ぐのが見えてくる
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近づくと、その光が下方に深い陰をつくる
月の塊が自分を待つ
scene4
暗闇は続いている
月は低く浮いて、重くのしかかる
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押しつぶされる恐怖と闘いながら、月の下を歩く
それでも前へ進めば、いつの間にか目は爛爛として
壮麗なる蛇の幾千万の鱗が月夜に照らされるように
全身から夜光のような輝きを放ち始める
その姿は、崇高であり、怪異でもあるという矛盾のために
人々に直視することを許さず、同時に目をそむけることを許さない
scene6
光の世界へ
地鳴りのような歓声が聴こえる
・・・・・