gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

ランニング

コロナで家にいる人が増えて、外を走る人が増えている。

 

最近は、走る人に対しても、潜伏期間の人がすれ違いざまにうつしている可能性があるとして、マスクの着用が叫ばれている。

 

確かにそうだが、周囲に明らかに人がいなければ、マスクを着ける必要はない。そうであれば、すれ違うときに口を覆うハンカチを用意すれば十分ではないか?

 

もちろん、すれ違う相手としては安心感が欲しいわけなので、確実に飛沫が来ないことが保証されるべきだと言いたいのだろう。これが社会の面倒なところだ。

 

ぼくは走っても苦しくならないマスクを見つけたからよかったが、早速売り切れている。

 

https://item.rakuten.co.jp/funlifestore/org02991/

 

 

映画 愛のむきだし

2009年。園子温監督。

 

西島隆弘演じるユウだけが、なぜ新興宗教にはまらないでいられたか?

 

もちろん、ヨーコを助け出すという明確な目的があったからだろうが、そもそも目的とは微塵の隙も見せないほどに、常に確固として存在していられるのだろうか?

 

自分だったらどうだろう?残念ながら、それほど自信はない。

 

 

 

 

動きが止まってきた

世の中の動きが止まってきたのを実感している。

 

今のところ、国民は冷静に対応しているようにみえるが、いつまでそのようにいられるのだろうか?

 

政府はまだお金を配れていない。貯蓄のない人が多い中で、どうやってお金を手にするまで待つことができるのか?

 

周囲が心配だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モンキチ、見つかる

去年の3月31日に、千葉ではぐれてしまったサルのパペット、モンキチが見つかった。

 

1年以上が過ぎて見つかるなんて、奇跡的だ。

 

 

妻がなんとなくモンキチと同じ型のパペットを数か月ぶりにネットで探していたら、メルカリに千葉の出品者が出していて、すぐに購入した。

 

数えきれない画像の中から、見つけたのは陽向だ。

 

感動のあまり、陽向は号泣してしまった。

 

家族3人とも、大喜びだ。

 

拾ってくれた人がいて、子供がしばらく遊んで、そして、飽きてしまったのかもしれない。

 

 

 

陽向は、1歳の時からいつも一緒だったから、モンキチは家族の一員だった。

 

そして、寝る前のお話の時間に、ぼくの小学校時代の同級生として登場して以来、モンキチは陽向の「師」として、大事な存在になった。

 

「モンキチが見てるから頑張る」

 

そんな存在だったのだ。

 

 

 

そして、ぼくにとっては、朝、目が覚めると必ず横に座っていて、目が合って、静かに語りかけてくれた。

 

「大丈夫。がんばる。」

 

ぼくはそう心でつぶやいて、ベッドから這い出したものだ。

 

そんな朝を取り戻すことができる。

 

 

モンキチは、ぼくらにとって生きたぬいぐるみだ。

 

 

衣・食・住

衣・食・住が生活の基本と小さな頃から教わってきた。

 

コロナ後の世界を見据えようとすると、単純にこの3つが揃えば生きていける、という観点で自分たちの暮らしを考えてみてもいいかもしれない。

 

そのとき、おカネって、いったいどのくらい稼ぐ必要があるのだろうか?

 

まずは、衣。これは、今持っている服で大体生きていくのに十分だとすれば、今後特にお金は必要ない。生きる、という意味では、破れたら自分で縫うことくらいはできる。

 

次に、食。これは、きっと新しいことを始めなければならないときだ。日本の食料自給率は40%と言われているが、コロナによって海外からの輸入分が確保されるのかは、大丈夫だと言っている人もいるが、コロナ問題自体が予測されなかった事態としてあるのだから、何が起こるか分からない、という前提で動いた方がいいと思っている。

 

で、小さな畑を借りることにした。どのくらいの量をそれで賄うことができるか、実際に動いて知っていきたいと思う。

 

また、自然に生えている植物の中で食べられるものが分かるように。

 

20代で志していながら、ちっとも真剣にやってこなかったことを、これを機にしっかりやってみたい。

 

自給自足。それをイメージできるようになりたい。これができると、人間はずいぶん自由になれるんじゃないだろうか。

 

最後に、住。これも根本から考え直したい。仕事のために都心に事務所を借り、工場を借り、住まいを借りて支払ってきた家賃は、会社を興して以来2億円に近い。

 

他に方法はないのか?コロナ後も疫病の恐れは続くなら、郊外へ出るのはどうか?

 

ならば、土地を買って終の棲家を自分で建ててもよいかもしれない。

 

・・・と、書いているうちに愉しくなってきた。 

安全な場所

外を出歩く人が減って、人とすれ違う回数も一日に数えるほどに減ってきた。

 

道を選んで歩くことで、ほぼ人とすれ違わない一日を過ごすこともできるだろう。

 

 

安全のために、家にこもるか? それとも、外の風通しのよい場所にいるか?

 

どちらも決してきらいではない。

 

 

大事なとき

陽向はこれまでやれと言われたことをやってきた。

 

自分から「これをしたい」ということが、少なかった。

 

だから、なんとなくyoutubeを見てしまうことが多くて、気がついたら何時間も過ごしているということが多かった。

 

朝起きるときに目標がない生活はつまらない。

 

毎日、今日は「これをしたい」と思って、自然に目が覚めるような生活に切り替えよう。

 

今は、絶好のタイミングだ。

 

 

映画 オーバー・フェンス

2016年。オダギリ・ジョー、蒼井優

 

仕事で家庭を顧みずに家族を失った男が、壊れかけた女に出会う。

 

男は、表面上は自分を卑下しながらも、自分がしたことは仕方がなかったと思っている。多分、大半の男はそう思って生きている。

 

壊れかけた女の過去は描かれない。今が重要なのだ。

 

女は、仕事に追われていた男が元妻を追い詰めてしまった告白を聞いて、狂ったように男を責める。

 

その後、男は元妻に会う。元妻は一緒にいたときよりも健康になっている。

 

それを見て、初めて男は自分がしたことの真実を知り、その場で泣き崩れる。

 

コロナ・ウィルスで家を出られない男たちがこれを見れば、それぞれが自分がしてきたことの真実を知るかもしれない。

 

 ぼくはどうだろう?

 

妻とは一緒に仕事をしていることで、それを免れたのかもしれない。

 

あとは、陽向を一人にしないことだ。

 

 

自分を制御できないとき

友川カズキの「無残の美」の冒頭は、人が人間のいちばん奥深くにある「淋しさ」にたどり着くとき、血縁も含めて社会とは縁の切れたところの「とりかえのきかぬもの」の美しさに触れられることをうたっている。

 

・・・・・

詩を書いたくらいでは間に合わない淋しさが時として人間にはある

そこを抜けようと思えば思うほど
より深きものに抱きすくめられるのもまた然りだ

あらゆる色合いのものの哀れが
夫々の運を持ちて立ち現れては
命脈を焦がして尽きる物である時
如何なる肉親とても幾多ある他人の一人だ

その死は実に無残ではあったが 私はそれを綺麗だと思った

・・・・・

 

自分を制御できる領域でしか生活していない人間には、到達できないことが世界にはたくさんある。

 

それを見ないで人生を終えることをぼくらは「幸せな人生」と呼んでいるのかもしれない。

 

だが、自分を制御できない状態の人間を、決してその人のせいにしてはいけない。

 

その人どんな立派に見える人間もその人自身の中にその人になる可能性を秘めている。

 

今やそれをネガティブとは思えない。

 

外へ出よう。

 

 

Max Richiter

映画「メッセージ」の挿入曲On the nature of daylightについて、長谷川町蔵氏は次のように書いている。

 

・・・・・

楽曲自体は、5つの弦楽器とミニムーグのみのシンプルな編成で、最初から最後まで同じフレーズが繰り返されるミニマル・ミュージック的なもの。だがそのフレーズ自体は簡潔ながら極めてエモーショナルだ。映像的には静謐なシーンが多い一方、主人公の内面が激しく揺れ動くタイプの映画の挿入曲にいかにも相応しいナンバーと言えるだろう。
 でも『メッセージ』においては、この曲と映画はもっと作品テーマの核となる部分で繋がっている。その何よりの証拠が<彼ら>の言語に時間の概念が無いこと。これを音楽化するとしたら始まりも終わりもないミニマル・ミュージック以外考えられないのだ。
 また楽曲のタイトルが、古代ギリシアの哲学者エピクロス宇宙論をローマの哲学者ティトゥスルクレティウス・カルスが詩の形式で解説した書「On The Nature of Daylight(『事物の本性について』)」から取られたことにも注目してほしい。
 エピクロスの思想は、自然現象に恐怖を感じることから人間を解き放とうとしたものだ。つまり徹底的な無神論であり死後の世界は完全否定されている。しかし同時にエピクロスは、死とは原子に還ることなので、そういう意味において生命は永遠だとも語っている。そんなテーマを孕んだ「On The Nature of Daylight」をバックに、ルイーズは幼くして死んだ娘の人生も永遠であり、価値があることを知るのだ。

・・・・・

 

On the nature of daylightを聴いていると、「生きたい」という気持ちが強くなる。

 

それは、「死にたくない」という気持ちとは違う。

 

シンプルに、今日を生きることに意味がある、と思えるのだ。

 

ミニマル音楽は、時間が今という瞬間の連続であることを、潜在的に知らしめてくれるが、その繰り返されるフレーズによっては、これを聴き続けること以上の苦痛はない、という絶望に陥ることもある。

 

そして、同時に、静かな気持ちにさせてくれるのもミニマル音楽だ。

 

ミニマル音楽が、ものごとに向かう態度を、姿勢を正してくれる。

 

起承転結のある音楽では、この姿勢を持続できない。

 

ぼくは、現在、空間をつくることを考えながら、この曲を聴き続けている。

 

無音か、この曲か、どちらかだ。