下記はasahi.comの3月12日の記事『新型コロナは「撲滅すべき悪」なのか 人類の歴史に学べ』から転載。長崎大熱帯医学研究所教授の山本太郎氏のインタビュー記事。
・・・・・流行が終わるためには
感染症が人間の社会で定着するには、農耕が本格的に始まって人口が増え、数十万人規模の都市が成立することが必要でした。
私たちは感染症を『撲滅するべき悪』という見方をしがちです。だけど、多くの感染症を抱えている文明と、そうではない文明を比べると前者の方がずっと強靱(きょうじん)だった。16世紀、ピサロ率いる200人足らずのスペイン人によって南米のインカ文明は滅ぼされた。新大陸の人々は、スペイン人が持ち込んだユーラシア大陸の感染症への免疫を、まったく持っていなかったからです
一方でアフリカの植民地化が新大陸ほど一気に進まなかったのは、さまざまな風土病が障壁になったからです。近代西洋医学は植民地の感染症対策として発達した面が強い人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。
人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。
多くの感染症は人類の間に広がるにつれて、潜伏期間が長期化し、弱毒化する傾向があります。病原体のウイルスや細菌にとって人間は大切な宿主。宿主の死は自らの死を意味する。病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していくのです。感染症については撲滅よりも『共生』『共存』を目指す方が望ましいと信じます
感染が広がりつつある現時点では、徹底した感染防止策をとることで、病気の広がる速度を遅くできます。患者の急増を防ぐことで医療にかかる負荷を軽減し、より多くの患者を救えます
さらに言えば、病原体の弱毒化効果も期待できる。新たな宿主を見つけづらい状況では『宿主を大切にする』弱毒の病原体が有利になるからです。感染防止策は『ウイルスとの共生』に至るまでのコストを大きく引き下げます
集団内で一定以上の割合の人が免疫を獲得すれば流行は終わる。今、めざすべきことは、被害を最小限に抑えつつ、私たち人類が集団としての免疫を獲得することです
・・・・・社会にもたらす変化とは
当時の欧州ではペストで働き手が急減したことで、賃金が上昇し、農奴制の崩壊が加速。身分を超えた人材の登用も行われるようになりました。ペストに無力だった教会の権威は失われ、代わって国家の立場が強くなった。こうした変化はペストの流行がなくてもいずれ実現したでしょうが、その時期が大幅に早まった。新型コロナウイルスも同様に、歴史の流れを加速するかもしれません
今回の感染拡大が100年前に起きていれば、『今年は重症の風邪が多いな』という程度で、新型ウイルスの存在さえ気づかずに終わっていたかもしれない。だけど、現代では医学・疫学の発達によって感染の拡大がつぶさに追えるようになった以上、政治も社会も対応せざるを得ません
従来の感染症は多くの犠牲者を出すことで、望むと望まざるとに関わらず社会に変化を促したが、新型コロナウイルスは被害それ自体よりも『感染が広がっている』という情報自体が政治経済や日常生活に大きな影響を与えている。感染症と文明の関係で言えば、従来とは異なる、現代的変化と言えるかもしれません
・・・・・以上、抜粋(ほぼ全文ですが)
以上で述べられていることに、今回のコロナ問題の核心はほとんど書いてあるように思う。
強く生きるということは、ネガティブな相手とも共生できるということだ。相手が何であれ、撲滅を目的としてはいけない。
今回、貨幣経済がどのように影響を受けるか、ぼくには明確にわからないが、国際的な国力がカネでは測れない状況になっている姿を見ることは、ぼくらの世代にとっては初めてのことかもしれない。
命がカネに勝る、という世界の政治家たちの認識を垣間見る瞬間があるとすれば、未来に希望も湧いてくる。
ウィルスもこの世に生まれた出た限りは、その命を尊重すべきだ、という考えを持つことが必要なのかもしれない。もちろん、一方的に元気になってもらっては困る。なんとか人類の存続に影響が出ないように、一緒にやっていこう、と。
害虫に関しても、似たような視線を向けるとよいだろう。生活に実害を与える領域に入ってくれば闘うけれど、領域を侵さない限りは、お互いの生を尊重しよう、と。
共生、共存の思想とはつまり、こういうことなんだろう。これが世界の基本姿勢となれば、人間同士の関係も変わるはずだ。
「多様な『私』というものが保証されるのが、パブリックという空間」ならば、政治は今こそ多様な『私』を保証するときだ。