陽向はこれまでやれと言われたことをやってきた。
自分から「これをしたい」ということが、少なかった。
だから、なんとなくyoutubeを見てしまうことが多くて、気がついたら何時間も過ごしているということが多かった。
朝起きるときに目標がない生活はつまらない。
毎日、今日は「これをしたい」と思って、自然に目が覚めるような生活に切り替えよう。
今は、絶好のタイミングだ。
いつもどこからか風が吹いてきて、新しいことが始まる
風を呼び込むことは、意図的にはできない
やるべきことをやって、「大丈夫だ」と思って生きること
それだけだ
2016年。オダギリ・ジョー、蒼井優。
仕事で家庭を顧みずに家族を失った男が、壊れかけた女に出会う。
男は、表面上は自分を卑下しながらも、自分がしたことは仕方がなかったと思っている。多分、大半の男はそう思って生きている。
壊れかけた女の過去は描かれない。今が重要なのだ。
女は、仕事に追われていた男が元妻を追い詰めてしまった告白を聞いて、狂ったように男を責める。
その後、男は元妻に会う。元妻は一緒にいたときよりも健康になっている。
それを見て、初めて男は自分がしたことの真実を知り、その場で泣き崩れる。
コロナ・ウィルスで家を出られない男たちがこれを見れば、それぞれが自分がしてきたことの真実を知るかもしれない。
ぼくはどうだろう?
妻とは一緒に仕事をしていることで、それを免れたのかもしれない。
あとは、陽向を一人にしないことだ。
友川カズキの「無残の美」の冒頭は、人が人間のいちばん奥深くにある「淋しさ」にたどり着くとき、血縁も含めて社会とは縁の切れたところの「とりかえのきかぬもの」の美しさに触れられることをうたっている。
・・・・・
詩を書いたくらいでは間に合わない淋しさが時として人間にはある
そこを抜けようと思えば思うほど
より深きものに抱きすくめられるのもまた然りだ
あらゆる色合いのものの哀れが
夫々の運を持ちて立ち現れては
命脈を焦がして尽きる物である時
如何なる肉親とても幾多ある他人の一人だ
その死は実に無残ではあったが 私はそれを綺麗だと思った
・・・・・
自分を制御できる領域でしか生活していない人間には、到達できないことが世界にはたくさんある。
それを見ないで人生を終えることをぼくらは「幸せな人生」と呼んでいるのかもしれない。
だが、自分を制御できない状態の人間を、決してその人のせいにしてはいけない。
その人どんな立派に見える人間もその人自身の中にその人になる可能性を秘めている。
今やそれをネガティブとは思えない。
外へ出よう。
個人のためにデザインをするときには、その個人の生きる態度・姿勢を感受し,
その未来を見据えて、カタチにしようとする。
映画「メッセージ」の挿入曲On the nature of daylightについて、長谷川町蔵氏は次のように書いている。
・・・・・
楽曲自体は、5つの弦楽器とミニムーグのみのシンプルな編成で、最初から最後まで同じフレーズが繰り返されるミニマル・ミュージック的なもの。だがそのフレーズ自体は簡潔ながら極めてエモーショナルだ。映像的には静謐なシーンが多い一方、主人公の内面が激しく揺れ動くタイプの映画の挿入曲にいかにも相応しいナンバーと言えるだろう。
でも『メッセージ』においては、この曲と映画はもっと作品テーマの核となる部分で繋がっている。その何よりの証拠が<彼ら>の言語に時間の概念が無いこと。これを音楽化するとしたら始まりも終わりもないミニマル・ミュージック以外考えられないのだ。
また楽曲のタイトルが、古代ギリシアの哲学者エピクロスの宇宙論をローマの哲学者ティトゥス・ルクレティウス・カルスが詩の形式で解説した書「On The Nature of Daylight(『事物の本性について』)」から取られたことにも注目してほしい。
エピクロスの思想は、自然現象に恐怖を感じることから人間を解き放とうとしたものだ。つまり徹底的な無神論であり死後の世界は完全否定されている。しかし同時にエピクロスは、死とは原子に還ることなので、そういう意味において生命は永遠だとも語っている。そんなテーマを孕んだ「On The Nature of Daylight」をバックに、ルイーズは幼くして死んだ娘の人生も永遠であり、価値があることを知るのだ。
・・・・・
On the nature of daylightを聴いていると、「生きたい」という気持ちが強くなる。
それは、「死にたくない」という気持ちとは違う。
シンプルに、今日を生きることに意味がある、と思えるのだ。
ミニマル音楽は、時間が今という瞬間の連続であることを、潜在的に知らしめてくれるが、その繰り返されるフレーズによっては、これを聴き続けること以上の苦痛はない、という絶望に陥ることもある。
そして、同時に、静かな気持ちにさせてくれるのもミニマル音楽だ。
ミニマル音楽が、ものごとに向かう態度を、姿勢を正してくれる。
起承転結のある音楽では、この姿勢を持続できない。
ぼくは、現在、空間をつくることを考えながら、この曲を聴き続けている。
無音か、この曲か、どちらかだ。
なそうとしても、どうしてもなせないことがある。
もしくは、逆になすまいとしても、どうしてもなしてしまうことがある。
そんな自分の限界点に挑むために、一生を生きるのか?
それとも、その情熱はやがて冷めてしまうのか?
ずっと一点を見つめ続ける人は、取り巻く世界が変わろうと意にも介さない。
毀誉褒貶に晒されながらも、夜光のような輝きをひたすら放ち続ける。
崇高と邪悪を併せ持つという矛盾のために、群がる人々を魅了しながら、同時に突き放す。
人々に直視することを許さず、同時に目をそむけることを許さない。
一瞬のまばゆい光を浴びては、
森深くへ身を隠し、大半の時間を暗闇の中でじっとおのれに耐えることに費やす。
その絶え間ない繰り返し。
そのようにして、自分の限界点を更新し続ける。
これが最後かもしれない、という覚悟は、感覚をいっそう研ぎ澄ます。
崇高と邪悪。かつてだれも見たことがない、夜光のような輝きが放たれる。
ぼくの仕事は、ストーリーを生み出す仕事だ。
ある空間をつくるために、その条件を掬い上げて、ストーリーをつくる。
真剣に言葉を探そうとする日がもう5日ほど続いている。
3日目に結びそうだったストーリーは、かたちを見せないまま、透明な空気に消え去った。
でも、あきらめてはいけない。
かたちが表れようとして消える、この繰り返しは、あきらめなければ、消え去った回数が多いほど、自分をまだ見ぬ遠い所へ連れて行ってくれる。
そう、あきらめなければ。
あきらめてしまえば、残るものは何もない。0だ。
60や、70はない。
到達できたとしたら、100が待っていることを知っている。
そんな時間を生きている。
きっとこのクライアントも、そのように生きてきたのが分かる。
コロナウィルス問題によって、世界経済が停滞し、温暖化は一時的に止まっているらしい。
環境問題に最も効果的なのは、経済が停滞することだという皮肉は、今後経済が回復すれば、環境問題はリバウンドにより、回復前よりも急速に悪化する恐れがあるという。
ぼくは、単純に経済状態が元に戻ることを望んでいない。飢えないようにだけは食い止めて、人類はこの機会に新しい生き方を見つけなければならない、と強く思っている。
リーマンショックでも、原発事故を伴う大震災でも、世界の仕組みの根本は変わらなかった。今回は、変えなければ、貧富の差が拡大する傾向は止まらない。
金持ちが幸せな生活を送っているわけでもない。自分が心から続けたいことを続けられる世の中にするために、過剰な金は必要ない。
とにかく、食糧が行き渡ることが大事だと思う。そこに不安がなければ、人は優しい心で過ごすことができる。
自由に外出ができて、自由に人に会える幸せは、やがて戻ってくるだろう。イベントも、カタチを変えて戻ってくるだろう。
ネットが発達した後にこの問題が起きたことは、とてもラッキーだったと思っている人は多いはずだ。(ネット社会になっていない場所に、この病気を広めないことはとても大事だ。)
テクノロジーはこれからもとても重要だが、大地や風と会話するような生き方が同時に重要であることをぼくらは実感している。
安冨歩の「マイケル・ジャクソンの思想」に、マイケルは「jam」しよう、と世界に呼びかけていることを書いている。
それは、スムーズに世界が動くために、人間の心が犠牲にされていることに気づかないふりをするのをよそう、という呼びかけだ。
この呼びかけは、それを言葉でどのように分かりやすく説明したとしても、「スムーズに世界を動かすことが一番大事なのだ」と信じている大多数の人々からは、拒絶され、批判される運命にあるだろう。
安冨歩は次のように書く。
「真の意味での『エンターティナー』とは、メッセージの隠蔽工作を実現できる人である」
隠蔽工作とはつまり、メッセージがあたかも全く別のものに見えるような工作である。
「マイケルはそれをこの上なく魅力的な音楽に乗せ、奇抜な衣装とセクシーでエロチックなダンスとともに届けたのである。」
「意識レベルでの受け取り拒否の機構をすり抜けて、メッセージを潜在意識のレベルへ届けることが可能になる。人間の行動は意識によっては変革しえない。意識でできることは、正しいフリをすることだけである。」
ものづくりをする人間の究極の目標は、この自らから発信されるメッセージを世界に届けることにある。
全てのアートは、この隠蔽工作のことだといってもいいだろう。
ぼくらにとって、とりかえのきく世界ととりかえのきかない世界との間に橋を架けることがつくることの意味であるとすれば、それを本当に伝えるにはビジネスの箱としての空間の方がよい、と考えるのも、受け取り手に油断をさせて、潜在意識のレベルへこのメッセージを届けるためだ。
この騒ぎの中で、落ち着いて生活をしていられるのは、家族の温かさが生活のベースにあるからだ。
ぼくは幸せだと思う。
なるべく家を出ないように、と言われている日々の中で、その温かさがなければつらい。
人間の温かさを多くの人が必要としているときだ。
今、ぼくらがなすべきことの基底にそれがある。
仕事から帰ると、陽向がつくったという小さな雪だるまがテーブルの上にあった。
桜が咲いている中の雪だるま。