友川カズキの「無残の美」の冒頭は、人が人間のいちばん奥深くにある「淋しさ」にたどり着くとき、血縁も含めて社会とは縁の切れたところの「とりかえのきかぬもの」の美しさに触れられることをうたっている。
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詩を書いたくらいでは間に合わない淋しさが時として人間にはある
そこを抜けようと思えば思うほど
より深きものに抱きすくめられるのもまた然りだ
あらゆる色合いのものの哀れが
夫々の運を持ちて立ち現れては
命脈を焦がして尽きる物である時
如何なる肉親とても幾多ある他人の一人だ
その死は実に無残ではあったが 私はそれを綺麗だと思った
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自分を制御できる領域でしか生活していない人間には、到達できないことが世界にはたくさんある。
それを見ないで人生を終えることをぼくらは「幸せな人生」と呼んでいるのかもしれない。
だが、自分を制御できない状態の人間を、決してその人のせいにしてはいけない。
その人どんな立派に見える人間もその人自身の中にその人になる可能性を秘めている。
今やそれをネガティブとは思えない。
外へ出よう。