gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

夜光のような輝き

なそうとしても、どうしてもなせないことがある。

もしくは、逆になすまいとしても、どうしてもなしてしまうことがある。

 

そんな自分の限界点に挑むために、一生を生きるのか?

 

それとも、その情熱はやがて冷めてしまうのか?

 

 

 

ずっと一点を見つめ続ける人は、取り巻く世界が変わろうと意にも介さない。

 

毀誉褒貶に晒されながらも、夜光のような輝きをひたすら放ち続ける。

 

崇高と邪悪を併せ持つという矛盾のために、群がる人々を魅了しながら、同時に突き放す。

 

人々に直視することを許さず、同時に目をそむけることを許さない。

 

 

 

一瞬のまばゆい光を浴びては、

森深くへ身を隠し、大半の時間を暗闇の中でじっとおのれに耐えることに費やす。

 

その絶え間ない繰り返し。

 

そのようにして、自分の限界点を更新し続ける。

 

 

 

これが最後かもしれない、という覚悟は、感覚をいっそう研ぎ澄ます。

 

崇高と邪悪。かつてだれも見たことがない、夜光のような輝きが放たれる。

 

 

 

0か、100か

ぼくの仕事は、ストーリーを生み出す仕事だ。

 

ある空間をつくるために、その条件を掬い上げて、ストーリーをつくる。

 

真剣に言葉を探そうとする日がもう5日ほど続いている。

 

3日目に結びそうだったストーリーは、かたちを見せないまま、透明な空気に消え去った。

 

でも、あきらめてはいけない。

 

かたちが表れようとして消える、この繰り返しは、あきらめなければ、消え去った回数が多いほど、自分をまだ見ぬ遠い所へ連れて行ってくれる。

 

そう、あきらめなければ。

 

あきらめてしまえば、残るものは何もない。0だ。

 

60や、70はない。

 

到達できたとしたら、100が待っていることを知っている。

 

そんな時間を生きている。

 

きっとこのクライアントも、そのように生きてきたのが分かる。

 

 

温暖化

コロナウィルス問題によって、世界経済が停滞し、温暖化は一時的に止まっているらしい。

 

環境問題に最も効果的なのは、経済が停滞することだという皮肉は、今後経済が回復すれば、環境問題はリバウンドにより、回復前よりも急速に悪化する恐れがあるという。

 

ぼくは、単純に経済状態が元に戻ることを望んでいない。飢えないようにだけは食い止めて、人類はこの機会に新しい生き方を見つけなければならない、と強く思っている。

 

リーマンショックでも、原発事故を伴う大震災でも、世界の仕組みの根本は変わらなかった。今回は、変えなければ、貧富の差が拡大する傾向は止まらない。

 

金持ちが幸せな生活を送っているわけでもない。自分が心から続けたいことを続けられる世の中にするために、過剰な金は必要ない。

 

とにかく、食糧が行き渡ることが大事だと思う。そこに不安がなければ、人は優しい心で過ごすことができる。

 

自由に外出ができて、自由に人に会える幸せは、やがて戻ってくるだろう。イベントも、カタチを変えて戻ってくるだろう。

 

ネットが発達した後にこの問題が起きたことは、とてもラッキーだったと思っている人は多いはずだ。(ネット社会になっていない場所に、この病気を広めないことはとても大事だ。)

 

テクノロジーはこれからもとても重要だが、大地や風と会話するような生き方が同時に重要であることをぼくらは実感している。

 

 

映画 秒速5センチメートル

2007年。新海 誠監督。

 

ぼくが遠い昔に読んだ、村上春樹の小説を思い出した。

 

ぼくは、主人公に魅かれはするが、自分を投影することはできない。

 

小中高くらいで、フラフラしない自分があるなんて、現実にはありえない気がする。

 

ふわふわと、いい加減で壊れやすいから、柔軟でもある。

 

それがそのときの自分をもとにイメージした10代の魅力だと思っている。

 

この映画のキャラクターは、大人がつくり出した偶像ではないか?

 

だが、嫌いではない。

 

 

食料危機

世界経済が止まってしまったら、食料自給率の低い国はどうなってしまうのか?

 

ニューヨークが壊滅状態だという。

 

個人が貧しくなっても、国が配給すればよい。

 

逆に、金はあっても、食料がなければ買えない。

 

国は、食料を確保できるのか?

 

世界の食料の状況を知りたい。

 

そして、今は春なのだから、植えられる場所にはできるだけ野菜を植えた方がよいのではないか?

 

 

2か月前

まだ、だれもコロナのことなんて気にしていなかった2か月前が遠い昔のように感じられる。

 

ある意味、毎日がエープリルフールではないか、と思うくらいに現実感のない日々が続いている。

 

世の中は、すっかり変わってしまった。

 

それでも、必然だったと思うもう一人の自分がいる。

 

そして、この「もう一人の自分」の方が、えらいこっちゃ、と慌てる自分よりも、はるかに存在が強い。

 

今は、この人生で3度目くらいの、冷静な自分が世界を見つめている時間だ。

 

明日がどうなろうと、きっと冷静でいられる。

 

 

隠蔽工作

安冨歩の「マイケル・ジャクソンの思想」に、マイケルは「jam」しよう、と世界に呼びかけていることを書いている。

 

それは、スムーズに世界が動くために、人間の心が犠牲にされていることに気づかないふりをするのをよそう、という呼びかけだ。

 

この呼びかけは、それを言葉でどのように分かりやすく説明したとしても、「スムーズに世界を動かすことが一番大事なのだ」と信じている大多数の人々からは、拒絶され、批判される運命にあるだろう。

 

安冨歩は次のように書く。

 

「真の意味での『エンターティナー』とは、メッセージの隠蔽工作を実現できる人である」

 

隠蔽工作とはつまり、メッセージがあたかも全く別のものに見えるような工作である。

 

「マイケルはそれをこの上なく魅力的な音楽に乗せ、奇抜な衣装とセクシーでエロチックなダンスとともに届けたのである。」

 

「意識レベルでの受け取り拒否の機構をすり抜けて、メッセージを潜在意識のレベルへ届けることが可能になる。人間の行動は意識によっては変革しえない。意識でできることは、正しいフリをすることだけである。」

 

ものづくりをする人間の究極の目標は、この自らから発信されるメッセージを世界に届けることにある。

 

全てのアートは、この隠蔽工作のことだといってもいいだろう。

 

ぼくらにとって、とりかえのきく世界ととりかえのきかない世界との間に橋を架けることがつくることの意味であるとすれば、それを本当に伝えるにはビジネスの箱としての空間の方がよい、と考えるのも、受け取り手に油断をさせて、潜在意識のレベルへこのメッセージを届けるためだ。

 

 

温かさ

この騒ぎの中で、落ち着いて生活をしていられるのは、家族の温かさが生活のベースにあるからだ。

 

ぼくは幸せだと思う。

 

なるべく家を出ないように、と言われている日々の中で、その温かさがなければつらい。

 

人間の温かさを多くの人が必要としているときだ。

 

今、ぼくらがなすべきことの基底にそれがある。

 

 

映画 ある秘密

2007年。クロード・ミレール監督。

 

第二次世界大戦後のフランスで、スポーツの得意な両親を持ちながら、病弱で運動の苦手なユダヤ系の少年フランソワは、自分とは対照的な理想の兄を空想の中で作り上げていた・・・。(wikipedia)

 

父と母の愛が、父の前妻とその子をホロコーストの場に追いやってしまった過去を知った少年。そして、その過去がなかったら、彼は存在していないという現実。

 

存在すること。生きること。それらを受け入れて、最善のことをやろうとすること。

 

父母の旧友ルイーザは、父も母も「裁くことはできない」と言う。

 

静かに微笑んで生きる。それ以上のゴールはない。

 

 

映画 三重スパイ

2003年。エリック・ロメール監督。

 

自分が近代史について、いかに無知であるかを思い知らされる映画。ロシアの白軍、赤軍、そして、ナチスの三重スパイであった主人公は実在の人物らしい。

 

戦時の命の重さは軽い。どのように生きようと、紙切れほどの重さもない。

 

そして、戦時ではない現代も、そのような扱いを受けることは確実にある。

 

非常時である今だから、それぞれの命の重さを実感できる時代の姿を明確に描きたい。

 

 

温暖化が止まっているかもしれない

ここ最近の世界的な経済活動の鈍化で、地球温暖化を抑止する効果はずいぶん上がっていることが予想される。

 

これは、コロナウィルス以上の被害が予想されている温暖化で大量発生したバッタの襲来を抑えることにつながるかもしれない。

 

地球を冷やすこと。実は、現在これが地球の壊滅を防ぐために優先順位が最も高いことなのではないか。

 

2月にようやく鎮火したオーストラリアの森林火災も温暖化が原因とされている。

 

地球はもうギリギリのところに来ているのだろう。コロナウィルスはそんな意味でも、地球に福音をもたらすものになる可能性がある。

 

 

バッタの大群

東アフリカで発生した500億匹のバッタの大群が東へ移動しているそうだ。

 

温暖化によって、普通は冬に死んでしまうはずが、春まで生きのびてしまったそうだ。

 

現在は、パキスタンまで来ている、と。このまま生きていれば、6月にはその400倍に数を増やして移動すると言われる。つまり、200兆匹。

 

ルートに入った地域の農作物は食べつくされてしまうらしい。

 

もちろん、そのルートの先には日本がある。

 

また、バッタは大群になると、緑色だった体が黄色と黒色の体に変態して、毒性を帯びる可能性があるとのこと。

 

だから、バッタを食料とするのも難しいかもしれないそうだ。

 

ずいぶん急な最大級の恐ろしい話だが、コロナだけでなくこの災害の可能性にも備えなくては。

 

今のところ、何もできそうにないが、とりあえずできるのは食料の備蓄くらいか?

 

 

コロナウィルス後の世界

過去にも疫病は頻繁に世界を脅かしてきた。

 

14世紀にはペストの流行によって、ヨーロッパの全人口の30%から60%が死亡したと言われている。

 

日本でも天然痘が8世紀以来、度々流行を繰り返すなど、疫病は珍しくない。

 

だから、武漢でコロナウィルスが発生したと聞いたときも、誰もこんな事態になるとは思っていなかったと思う。

 

グローバル資本主義があっという間に機能不全に陥ってしまったのは、不幸であると同時に、新しい何かが見えてくるのではないか、というかすかな希望も感じられる。

 

今後の世界を描ける人はどのくらいいるかわからない。でも、それぞれの人が真剣に自分でそれを描いてみようとすることが、今最も大事なことだ。

 

 

 

 

暗闇

 

私たちが生まれてくる前は、私たちは死んでいたのか、それとも、生きていたのか。

 

もしかしたら、こういうことがいえるかもしれない。私たちは、生まれてきたときには、もう既に先人たちの生命の一部として何億年も生きてきて、最後の瞬間を一つの生命体として過ごすために生まれてくるのではないか。私たちは生まれてきたときに、他の生命体の一部という存在から解き放たれて、最も自由な存在になると同時に、逆に、記憶によって他の生命体の一部である状態を常に願望として抱くことを強いられながら、決して他の生命体と合一できないという最も不自由な存在になるのではないだろうか。

 

おそらくは、このような矛盾を抱えて生まれてくるためか、あらゆる生きとし生けるものはどこか悲しげである。これを書いている私も、これを読んでいるあなたも、外でさえずる鳥も、地中にうごめくミミズも・・・。

 

 

 

何億年も先人たちの生命の一部として包含されてきた私たちの生命は、過去から未来に目を転じると、他の生命を自分の一部として包含している。宇宙が誕生したときから生まれてくるまで、正確にいえば、生まれた後も独り立ちできるようになるまで、何億年も「守られる」側であった自分が、初めて、「守る」側の存在として生き始める。そして、そのような立場で生きることができるのも、何億年の時に比べれば、ほんの一瞬、一秒にすぎない。

 

私たちが一つの生命体として自分の人生を生きる理由は「守る」ことを体験するためである、といってよいかもしれない。他の生命体と合一できない生来の悲しみは、「守る」ことによってのみ打ち消される。見よ、鳥が巣の中の雛を守ることにいかに必死であるか。

 

 

 

私たちが先人の一部として包含されているとき、私たちはずっと深い暗闇の中にいただろう。そして、母親の懐胎の瞬間、暗闇の中にひとつ小さな光が灯される。その光は少しずつ大きくなり、心拍によって光の外を覆っている暗闇との交信を行いながら、ひたすら細胞の分裂を繰り返していく。やがて、人間のかたちができあがっても、光の周囲には依然として、たっぷりとした暗闇が無限のかなたへ広がっている。

 

そのようにして生まれてきた子供たちはみな、すぐそこに無限の暗闇が広がっているのを知っている。まるで友達のように、暗闇をのぞいてみたり、暗闇の側へさっと消えてしまったりするだろう。

 

その暗闇は、生命の根源であり、また、死でもある。「守る」ために生まれてきた私たちは、大人になるにしたがい、暗闇を封じ込めることで生命を守ろうとするようになる。そして、大人たちは、暗闇がすぐそこにあることをすでに忘れてしまっているかのようにふるまうようになる。

 

しかし、暗闇の存在を忘れてしまった人間は、不意の出来事で光から逸れてしまったとき、自分の軌道を見失い、あわてて光の中へ戻ろうとすることしかできない。もはや、暗闇に生命の根源を見ることができないからである。だが、あわてて光の中へ戻ったとしても、そこにはもう彼を生かす場所は用意されていない。生命は、即座に危険に曝される。

 

どのように、生命を「守る」のか?

 

彼は、暗闇で目を凝らして、じっと自分に耐えていなければならなかったのだ。そこから新たな光を見いだすときまで。