gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 2/デュオ

1996年。諏訪敦彦監督。柳愛里。西島秀俊

 

同棲する二人の生活を追う。

 

女を演じた柳愛里は複数の映画で主演をつとめながらwikipediaにも出てこない。やや調べていくと柳美里の妹であることが分かったが、どのような人なのかはさっぱりわからない。世の中への露出が多くてもネット情報が出回らない人がいることがとても不思議で新鮮だ。この映画でのこの人の演技はとても優れていたと思うが、またこのように行方を追えない人であることも、この映画の一部のように感じてならない。

 

2人の内面を追う息苦しさに、風を吹き込んでくれるものがある。それは、空間的にも時間的にも外部性だ。今の回路から外へ出ること。二人の部屋から外へ出ること。外へ出れば、ぼくらは電車に乗って、どこまでも逃げることができる。永遠に遠くへ離れることも含めて、ぼくらには可能性がある。本人たちも必然的に外へ出る。生きるためには、それ以外に方法はない。

 

俳優たちは状況を与えられて、シナリオなしで演じていたらしい。個々が全体を捉えて考える、という創造性の連鎖との類似をそこに見る。

 

 

微笑み

切実なところからくる事業は魅力的だ。

 

ぼくの場合はどうか?自問する必要があるということは、ぼくにも切実感はさほどないことの証明かもしれない。それでも、それをここに書き記したい、という衝動に駆られている。

 

 

捨ててしまうこと、忘れてしまうこと。そんな不義理を繰り返しながら生きることに対する懺悔の気持ちと、だがその被害者(物)だからこそ獲得する美しさを見いだせることへの安堵の気持ち。

 

ぼくもまた、捨てられ、忘れ去られることに対し、静かな気持ちになれる。そう、忘れ去られゆくものはどれも微笑んでいる。

 

この微笑みを感じとることが、続いていく命のリレーの意味ではないか。

 

 

 

買占め

近くのコンビニに牛乳がない、という日々が続いている。

 

少し離れたところまで行けば普通に売っているわけだから、近くの誰かが大量に買い占めているのだろうか。

 

日常品が何かの必要で誰かに買い占められたら、相当不便なことになる、という当たり前のことを実感する。

 

買い占めた人は、そんな自覚もないかもしれない。

 

自分が何気なくそうしていることもあるかもしれない。気をつけよう。

 

 

 

 

伝承 2

また、その素材の知りうる限りの情報を取材し記録することによって、

空間に歴史的な資料としての重さを与える

 

「住まう」「滞在する」という概念が、

定住的なものから、寄生的なものに移行している中、

多様な空間を体験する人が増えている

 

そんな状況下で、空間が言葉で書かれることによって、

それぞれの空間が小説の中にあるかのように存在感を増し、記憶に留められていく

 

 

 

伝承 1

時を経たものの価値は両義的で、見る者の視点によって変化する

 

この性質を利用し、価値観の相反する間で物物交換を成立させて、

汚しうる美を収集し、それを空間づくりの素材として生かす

 

ここでは金銭を媒介させないことが重要である

 

なぜなら、その瞬間に、その素材は商品となってしまい、

商品となってしまえば、取替のきかない存在ではなくなってしまうからである

 

風化したものが一般的には見向きもされないことは健全な姿であり、

それを「さりげなく」空間に取り込み、

空間を体験する人々に対して、

潜在的にやさしい心を呼びおこすものとして作用するのが

その理想的な存在の仕方だろう

 

 

 

 

映画 世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶

2010年。アメリカ、フランス。ヴェルナー・ヘルツォーク監督。

 

1994年に発見されたショーヴェ洞窟の3万2千年前の壁画。

 

この壁画を見て、何を感じるか?それは、ぼくらに突き付けられた重い問いだと思う。

 

3万2千年前に描かれた壁画を見ていると、今悩んでいることがちっぽけなことに感じる、とぼくの妻はつぶやく。

 

ある動物の絵の線の上に描き足した線の間には、5千年の隔たりがあるそうだ。5千年という時の間に、まるで何も変化がなかったように、線が描き足されることの美しさを思う。今流れる時間とは、なんと違うことだろう。

 

ぼくらが生きていくことと、この壁画を描いた人が生きていくことを、重ね合わせてみる努力をすることは、決して意味のないことではない。

 

 

 

 

映画 リップヴァンウィンクルの花嫁

2012年。岩井俊二監督。

 

リップヴァンウィンクルとは、アメリカ版浦島太郎のような話の主人公らしい。

 

話は面白いが、シュールであり、自己投影が難しい分、話を軽く感じてしまった。

 

黒木華蒼井優は、今のところ、ぼくの中ではほぼ同一人物だ。

 

そういう意味でも、とりかえのきかないものがぼくには感じとりにくい。

 

すべての不幸な出来事はだれかの悪意によって仕組まれている、という見方は人生を殺伐とさせるが、結果的にその企てを裏切ることもある、ということが希望を与えるのだろうか?

 

ぼくは依然として、殺伐とした気持ちのままだ。

 

 

 

 

 

 

SOTOCHIKUコンセプト

時を経たものの価値は両義的で、見る者の視点によって変化する

この性質を利用し、価値観の相反する間で物物交換を成立させて、

汚しうる美を収集し、それを空間づくりの素材として生かす

 

ここでは金銭を媒介させないことが重要である

 

なぜなら、その瞬間に、その素材は商品となってしまい、

商品となってしまえば、取替のきかない存在ではなくなってしまうからである

 

風化したものが一般的には見向きもされないことは健全な姿であり、

それを「さりげなく」空間に取り込み、

空間を体験する人々に対して、

潜在的にやさしい心を呼びおこすものとして作用するのが

その理想的な存在の仕方だろう

 

 

 

適者生存

生き残るための「優れた者」の基準は、強さでも、賢さでもなく、環境の変化に適応すること、である。

 

そして、環境の変化は往々にして予測できないところからやってくる。

 

だから、ぼくらの尺度で、どんな人が優れている、とは一概に言えない。

 

だから、すべての生き物に優劣がないとして、この世に生を受けたものにやさしい視線を向けよう。

 

そして、自然がどう変わっていくのか?それを、しっかりと見つめる。

 

これが正しい、と決めつけず、いつも自然と同じ方向を見ようとする。

 

個体に死は必ず訪れるから、個体は今が一番大事だ。

 

個体のこの思いがなければ、多様性は生まれない。

 

根底には、生を存続させるための、死。

 

 

 

単純なものの中の複雑

進化は進歩ではない、とダーウィンが言ったのは、例えば、細胞を持たないウイルスは、細胞に寄生することで生きることができるから、細胞のある生物よりも後に誕生した、と言えるからだ。

 

この場合、進化は、むしろ退歩である、と。

 

全体の系としては、多様化、複雑化に向かっている。けれど、個体として見れば、単純化へ向かうものもある。

 

その単純化された生物、ウイルスの数はおびただしい。個体の数でいえば、人間の比ではない。

 

ぼくらは、目に見えない単純なものが無数に浮遊する世界に生きる複雑な構造を持った塊だ。

 

 

 

モダニズムの空間

抽象化、単純化された空間に、人間という複雑な構造を持った塊がポツンと存在する。

 

モダニズムの空間にいることは、そんな対比をイメージさせる。

 

人間だけでは、物足りない。

 

エントロピーを増大させないと、心が満足しない。

 

ぼくらはSOTOCHIKUを必要としていると思う。

 

 

 

モンキチの旅立ち

昨日、福岡から無事帰ってきたモンキチだったが、今日、九十九里の海に連れていったら、どこかでいなくなってしまった。

 

心当たりを全部探したが、どこにもいない。

 

陽向は泣いた。8年も、兄弟のように過ごしてきたから無理もない。

 

ぼくも、そのつぶらな目にずいぶん助けてもらった。

 

見つめると、見つめ返してくるような、そんな静かなコミュニケーションが彼とは可能だった。

 

夜、陽向が寝る前のお話では、彼はぼくの子供の頃の同級生として登場する。

 

また、ぬいぐるみの彼は化身であって、彼の実体は高崎山のボス猿だということになっている。

 

取替のきかない存在だった。

 

今、モンキチは桜を見続けるために、千葉から北海道へ向けてゴールデンウィーク頃まで太平洋岸を旅している。

 

ぼくと陽向の間では、そういうことになっている。

 

 

 

 

陽向の帰京

福岡・直方へ単身で遊びに行っていた陽向が帰ってきた。

 

1年生から始めてこれで3回目だが、去年までは途中でぼくらも行って、九州で合流して一緒に帰ってきた。

 

だから、陽向が一人で帰ってくるのは初めてだ。

 

羽田へ迎えに行ったら、陽向はスターフライヤーのスタッフの女性に連れられて、楽しそうに登場した。

 

あいかわらず、知らない人と仲良くなるのは天性の才能だ。

 

さびしい、心細いとか、そんな感情はなかったようだ。

 

たくましくなってきたと言おうか、そのまんま変わらないと言おうか、天然に勝るものはない。

 

 

 

 

置き去りにした悲しみは

吉田拓郎が「生きてゆくのはああみっともないさ」と歌うのが、妙に耳に残っていた学生の頃。

 

今は、どんなことか分かる。いや、みっともないことにもいろいろあるけれど、このみっともなさに救いはあるのか。気にするべきことなのか。忌むべきことなのか。

 

それでも、ぼくは静かに笑っていよう。