たぶん、円の中心へ向こうとする禅的な思想と、生きやすさのための親鸞的な思想は、全く別物でありながら生きる中では近似してくるのかな、というふうに思えます。
どちらも西洋的な思想から見れば「どこか卑怯に見える」ような気がしますが、ぼくの感触では「意味の変容」はそれぞれを含み込んでひとつの小説に落とし込んでいるように感じられます。
「探究Ⅱ」の単独性ー普遍性もそれらをつないでいるように感じます。
だからきっと、中心へ迫る厳密な思考も、無意識のうちに民衆を救っているのではないか、と感じるところがあります。