gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

親鸞の世界

安富歩によると、親鸞は「他者とは如来の本願を伝える人」と考えたそうだ。

 

だから、その他者が師であろうと、弾圧を加える暴君であろうと、それが自分の学びの源ということになる。

 

この作用を「方便」と呼んだ。「嘘も方便」の方便だ。

 

だからといって、彼は他者のなすがままにされていたわけではない。相手がネガティブな作用を加えてくれば、徹底的に戦う積極性を維持することを説いた。

 

同じ独我論でも、ウィトゲンシュタインフッサール独我論では他者の問題に陥る。

 

親鸞独我論には、他者が定義されている。

 

南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよい、という他力本願の世界一簡単な行により、あらゆる人は救われる、という教えは、何もせず無になる禅より何万倍も気楽に思える。

 

ほとんど何もしない、という寸止め的な宗教は、日本人のお気楽な宗教観をつくってきただろう。

 

宗教的に悩まないで、俗事に没頭することが普通である日本人であることを、ぼくはラッキーだと思っている。

 

一方で、ぼくらはカルト宗教の持つような神秘性にめっぽう弱い。

 

宗教から自由で、かつ、日常に神秘を感じられて生きられるならば、それが理想の生き方ではないか。