坂口安吾について、柄谷行人が紹介するエピソードに次のようなものがある。
パーティのスピーチで、突然コットという先生が、死んだクレマンソーについて沈痛な追悼演説をはじめた。彼はふだんヴォルテール流の「ニヒリストで無神論者」であったから、安吾はそれを冗談だと思って聞いていたが、本気であることがわかると呆気にとられ、思わず笑い出してしまう。
『そのときの先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだった。
このような目は日本人にはないのである。(中略)血に飢え、八ツ裂にしても尚あき足りぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。凡そ仇討にふさわしくない自分達であることを、恐らく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかくせいぜい「食いつきそうな」眼付くらいが限界なのである。』(日本文化私観)
続いて、「憎悪をすぐに忘れてしまうことと、たやすく赦しを乞うことは表裏一体」であると、柄谷は書いている。
日本人一般については知らないが、私はまさにここに書いてある「日本人」そのものだと思う。これまで、そのことをネガティブに捉えたことはなかった。「憎しみは何も生まない」と信じていたからである。
だが、本当にそうだろうか?
昨年の反原発のデモ参加者の数が、事故の起こった日本ではせいぜい8万人が最大規模なのに対して、ドイツでは一度に25万人が参加した、といわれる。
このことは、日本人の怒りが持続しないことと無関係ではないだろう。
何かに対して、怒りを覚えて、それを持続することによって、何かを変えることができる。その何かを「変える」ためのエネルギーが私には足りないのではないだろうか。執拗さが足りないのではないだろうか。
安吾が重んじたのは「合理的実践」である。そして、「合理的であるためには、およそ非合理的な情熱を要する」ということをみとめたのだ。