興味深いのは、小椋佳は
「ありふれた幸せに 落ち込めればいいのだけれど」
と歌っているのに対し、
井上陽水は
「ありふれた幸せに 持ち込めればいいのだけれど」
と歌っていることだ。
小椋佳は受動的で、井上陽水は能動的だ、と言えるかもしれないが、そもそも「幸せ」は受動的に訪れる類いのものなのだろうか、能動的に手に入れるものなのだろうか?
高3の頃、確かFMラジオで、水沢アキが井上陽水と対談しながら、この曲を紹介するときに、この違いを指摘し、「小椋佳の方は文学的で美しいけれど、井上陽水の方は下品な感じ」みたいなことを言って、ちゃかしていたのを憶えている。
一方、井上陽水は「あら、そうでしたか。違いましたか。」みたいな感じで受け答えしていて、「間違っちゃいました」的な反応がまさに彼のイメージそのものでおかしかった。そう言いながらも、意図的なんだろう、と思った。
双方の歌詞は、一見逆の表現をしているように見えるけれど、「・・・ればいいのだけれど」と続いている。その後に省略されているのは「できない」という言葉だ。つまり、どちらも実現しないのである。そのことの方がより重要で、歌詞の違いが起こす一瞬のさざ波は次の瞬間にはもうおさまっている。
そんな微妙な違いによって、この歌を見事に自分の歌にしている井上陽水はすごい。「お」を「も」に変えただけで、文学的な美しい詩に、一瞬の下品さをよぎらせたことで、詩の主人公である青年をリアルな存在に変えている。
二人の歌には、たったこれだけの違いで、全く違った空間が成立している。