小田急線に乗っていて、ケーブルテレビの広告で「ひとりひとりが、見たいものを、見たいときに、見られる」というコピーをぼんやり眺めた。
その広告を見て、最初に思ったことは、子供の頃、水曜ロードショーで『シェーン』を放映するのに、何週間も前からCMが流れていて、ドキドキしながらその日を待ったことが懐かしいなあ、ということだった。
その頃の方が幸せだったかなあ、と比べてみる。
不自由なことは不幸ではない。これはたぶん真理だろう。なにかをドキドキしながら待つ、という経験が最近は減ったような気がしてくる。果たして、そうだろうか?
「ひとりひとりが、見たいものを、見たいときに、見られる」
なにもケーブルテレビだけではなく、インターネットでもそれはできる。欲しい情報の多くは即座に得られるようになった。
子供の頃は、例えば、知らない言葉を聞いたら、それを調べるのに今の10倍以上のエネルギーを必要としただろう。
私が大学の頃、ナマの英語を聴きたいと思ったら、短波ラジオでFENを聴くことを勧められていた。短波ラジオが受信できなかったから、ナマの英語をあきらめた。今なら、youtubeやネットニュースなどで、いくらでも聴き続けることができる。
勉強しようという意志がある人には、なんと幸せな時代が到来したのだろう、と思う。
家にいながら世界とつながる、という感覚を持てることもすばらしい。
保育園へ陽向を迎えに行くと、待ちわびていたかのように、満面の笑みを浮かべて興奮で手をバタバタさせながら駆け寄ってくる。その姿は、まちがいなく私に力をくれている。
私が子供の頃は、今では簡単に手に入る情報も、誰かが来るのを待つことと同じように、ドキドキしながら待つ対象だった。
今は、情報は待たずに自分からとりに行く時代である。
受動から能動へ。それが人類の進歩の方向と考えられてきただろう。
だが、当たり前のようにそこにある、と思ってしまったとき、そこにあるものへの尊さの感覚は薄らいでしまう。これが問題である。
人間には「待つ」ということが日常の中に必要なのではないだろうか。
能動と受動のバランス。その中で感性は育っていくだろう。それを忘れなければ、意志を持つ人間には、私が子供の頃と比べて、今の方が個人の可能性を広げやすい時代だと思う。