gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

アピール

秋葉原無差別殺傷事件の加藤被告が、「アピール」のためにやった、と供述した。

自分にひどい仕打ちをした(その判断基準はもちろん彼の中にある)人間に反省を促すために、次から次に無差別に人を殺したという。被害者側の人はたまったものではない。

だが、その思考回路は、理解できないようなものだろうか?私は「アピール」という言葉にどきりとした。

例えば、誰かとの会話で腹が立ったとき、不機嫌を「アピール」するために、大きな音を立ててドアを閉めて立ち去った経験はないだろうか?

そのような行動は、理性では抑えられない類のものではないだろうか?また、それは、理性的に行動しているときは、決してとらないような行動ではないだろうか?

怒りをある人へ「アピール」するため、という義を立ててしまえば、人間は日頃は行わないことを行うことを自分自身に対して許してしまうことがあるのだ。

行き場のないネガティブなエネルギーは、「アピール」として発散される。そして、「アピール」をする人間を論理的に制止することは困難である。つまり、「アピール」をする人間は、そのとき狂人と変わらない。

どうすれば、「アピール」することなく、この怒りから解き放たれることができるのだろう?

スピノザは、「怒りの原因について考える瞬間だけ、その怒りから解放されることができる」と書いたらしい。だが、どのような怒りも、即座にその原因を追究することで忘れてしまうなんて、私にはできそうにない。

できるかもしれないことは、「アピール」の相手を加害者という立場に置かない訓練をすること、そして、自分を被害者という立場に置かない訓練をすること、だろうか?