この人口80人の村が、昔から何も変わっていないわけではない。陸の孤島と言えども、文明の波は押し寄せている。
犬橇はスノーモービルに取って代わった。スノーモービルが走った跡は、雪が硬くなりすぎて、犬が足に怪我をしてしまうのである。生活を支えていたシベリア犬たちは、機能的な役割を終え、たまにイベントとしての犬橇レースに出場する以外は、愛玩犬として飼われる存在に変わっている。
そして、この村にもテレビがあり、丸太小屋にはビデオデッキがあった。地上波の映りはよくなかったから、夜もめったに見なかったけれど。
・・・
この村へ来て、かなり日数が過ぎた後、ジェイソンが一本のビデオテープを持ってきてくれた。
再生を押すと、しばらく私は呆然となった。その年の1月に日本の六畳一間のアパートで観た「極北の大河ユーコン」だったのだ。
ホテルで話しかけたお母さんをはじめ、目の前のジェイソン、そして、一緒に遊んだチャーリーなどの子供たち、彼らがすべてキャプション付きでインタビューされている。
私は「ユーコン川のほとりのちいさな村」としか記憶していなかったから、そのときまでこの事実に気づかなかったのだ。
私はテレビのブラウン管の中に入り込んでいたのである。
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どうしてこのようなことが起こるのだろう。なぜ、そのとき世界は私に対してあんなにも優しかったのだろう。
答えはわからない。
しかし、始まりは分かる。
「ユーコン川のほとりの小さな村でオーロラを見たい」
この『意志』を持ったことである。
意志があればかなう。そう信じていいのかどうかわからない。その答えは、私が死ぬときまでとっておかなくてはならない。
しかし、少なくとも、純度の高い意志は、力を持っていると思う。意志がかなわなかったとしたら、おそらくそこには余計なものがまとわりついているからだ。
・・・
村を離れる日、ジェイソンはスノーモービルで数10キロ凍ったユーコン川の上を走り、幹線道路まで送り届けてくれた。
私が「ヒッチハイクで帰りたい」とわがままを言ったからである。
フェアバンクスまで大型トラックの運転手が乗せてくれた。
「何してたんだい?」
「大学の春休みの旅行です」
「俺だったら、あったかいビーチで寝そべって過ごすけどなあ」