gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

スポーツの進化

2008年北京オリンピックの400mリレー銀メダリスト・塚原直貴さんが「速く走るための教室」をされるということで、陽向が参加するのに付いていった。

 

基本的な体操などを教えてくださったが、最後は、手は3拍子、足は2拍子で動かす体操だった。大人の私にも難しい。

 

100m走の記録もどんどん速くなってきて、日本人も10秒を切る人たちが複数出てきた。

人の体に何が起こっているんだろう、と考えたときに、つまりはこれだ、と思った。

 

できなかった動きをできるように練習すること。今まで、人ができなかったような動きをどんどんできるようになることで、どんどん可能性が開かれていく。

 

もちろん、すべてのスポーツに言えることだし、スポーツの域を越えて、すべてのものごとに言えることだろう。

 

目からウロコだった。

 

 

漱石とカント

「私の漱石」という本に収められた柄谷行人の小論。

 

「美的判断は普遍的でなければならないとカントは言っている。」

 

しかし、だれもそれを証明できない。自分たちのローカルな趣味が普遍的であると思い込んでいる人々からは、趣味の根拠を根本的に問う者は出てこない。

 

漱石も、カントも、もしくは、ロシアのフォルマリストも、趣味を自明の前提にすることができなかった人たちだ。

 

漱石は文化的相対主義を退ける。彼は、普遍性は、素材でなく素材と素材の「関係」形式にあると考える(『文学評論』)。ここから、文学が「科学」として考察される道が開かれる。」

 

空間も素材と素材の「関係」形式に、その普遍性はあるだろう。

 

「われわれが何事かを経験するとき、あるいは何かの文章を読むとき、それを知・情・意の領域で受け取っている。純粋に認識的なものはない。たとえば、数学の証明といえども、たんに厳密であるだけでなく「エレガント」であることが好まれている。逆に、どんな情緒的なものにも一定の認識がふくまれている。それらを完全に分離することはできない。」

 

知・情・意のそれぞれを見るとき、それ以外のものを括弧に入れなければならない。カントも漱石もこのように考えた。そして、漱石は、その括弧に入れる能力は歴史的に形成される「習慣」だという。

 

ぼくは、スクラップヤードで否応もなく飛び込んでくる3つのものの在り方について、再三書いてきた。今、その3つがそのまま知・情・意に対応していることに気づく。(順序的には、意・知・情)

 

1.鉄の塊20キロ、などの「量」として見る見方。

2.元は自動車だった、という「属性」を見る見方。

3.スクラップ「そのもの」として見る見方。

 

スクラップヤードという不思議な場所を経験しなければ、ぼくは括弧入れの「習慣」を身に着けることができなかったのかもしれない。

 

 だが、この見方ができることで、例えば、店舗空間をつくるときに必要な三要素を明確に捉えることができる。

 

1.機能的要素・・・機能に関わるもの。これがなければ、営業が成り立たない不可欠要素。

2.一般的要素・・・共同体の中で誰にでも通じると思われているもの。例えば、流行っている空間に共通する表層的要素。短期的に効力を発揮する。

3.創造的要素・・・感じようとすることで発見されるもの。世界に一つの空間にする深層的要素。長期的に効力を発揮する。

 

この見方は、もっと広い領域に拡大していくことができるだろう。

 

 

大学の同窓会

昨日は大学の同窓会に7年ぶりに顔を出した。

 

官庁、ゼネコン、コンサル、不動産、IT、大学の先生、映画監督など、さまざまな人生の軌跡を想像できて、愉しかった。

 

モンブランの山を160km走る大会に参加した同期SK君は、前回に毎週末土日に30kmずつ走っていると聞いて驚愕したが、今は走りすぎのために心臓をこわして走ることを遠ざかっている、とのこと。そこまでやった、ということ自体がすごい。本当に、すごい。

 

変わり種のぼくは「何してんの?」って、話しかけられるのがうれしい。

 

同じ研究室だったSD君とITで世界を転々とするTK君とで喫茶店で二次会。素敵な人たちです。

 

 

交差点の太陽

表参道の交差点で、ひだまりに人が溜まって信号待ちをしている。

 

白い息がやさしい光に溶けていく。

 

太陽がやさしい、冬が好きだ。

 

 

夏は、みな日光を避けて、日影に溜まる。

 

少しでも日影を見つけようと、電信柱の細い影にも人が立つ。

 

太陽は人を試すように照りつける。

 

 

冬の朝の太陽が好きだ。

 

もう落ちようとしている木の葉が長い影の中で揺れている。

 

光を受けた壁がやさしく見守る。

 

 

共感ではなく

共感ではなく、個人の独自の感覚(単独性)が発見や発明を生み出し、多様な世界をつくっていく。

 

多様な私というものを保証するのがパブリックである。

 

ぼくらはパブリックな空間をつくっている。

 

では、共感というものを求めるべきではないのか?

 

空間に、共感以前の多様な環境を与えることだ。

 

ある人にとって不快なものが、だんだんとその人に馴染んでくることだってある。

 

気になっていた壁のシミが、だんだんとその空間にとって大事なものと感じられることだってある。

 

そのとき、人は以前よりもより多様な環境に適応できるようになっている。

 

 

 

最初から共感が成立することを目標にすると、予定調和しかなくなる。

 

今、世の中で共感を得ているもので世の中をいっぱいにしてしまったら、そこで世の中は未来に対して閉じてしまう。

 

共感は、ずっと後にくればよい。

 

もっといえば、それは希いであってよい。

 

共感を保証する新しいものなどないし、すでにあるならもういらない。

 

 

空気の流れを変える力

その人の周りだけ、周囲と違う空気が流れている人。

 

そんな人が確かにいる。

 

同じ人が普段は気配を消していることもある。

 

意識的なのか、無意識なのか。

 

それをコントロールできるなら、武道でいえば達人の域か?

 

 

ぼくは、時間を経た素材も、こんな人と同じ力を持っている、と感じている。

 

「このままではよくない」と感じるとき、その流れを変える力とは何だ?

 

 

 

 

映画 永遠の0

2013年。百田尚樹原作。

 

「死にたくない」という心は、利己から来るものではない。「死なせたくない」という心も同時に生まれている。

 

一方で、戦争とは命を国に預けるという感覚なしには勝利できないのだろう。

 

だから、命は自分たちに帰属する、という兵士の訴えは通らない。

 

一度、戦争に突入してしまったら、もう人間の世界は望めない、ということだ。

 

ビジネスも戦争に似ている。競争相手と利益を取り合う。動くお金の額によっては、命懸けにもなる。

 

そうなったら、戦時中の兵士と変わらない。

 

一線を越える境界はどこにあるか、それを見極める必要がある。

 

中村 哲さん

中村哲さんが昨日4日に亡くなった。

 

「人々を救うためには、医療だけでは不十分だ」

 

「富の源は自然だ」

 

「日本の富を支えてきたのは、日本の自然だ」

 

アフガニスタンに、水と食糧を、戦争ではなく」

 

「先進国で学んだから、国が良くなると限らない」

 

医師なのに、用水路建設のために自ら重機を操作する。

 

地元の石の文化が、日本から来た技術である蛇籠づくりに生かされ、水がせき止められ、水路ができていく。

 

そうやって、10年の歳月をかけて完成した25kmの用水路の末端には、村がつくられる。村人たちが今後、永久にこの用水路を管理・運営していけるように。

 

「今日を生きる。その切実な願いが、共同体をつくる。」

 

そう、日本のぼくたちに欠けているのは、この「切実さ」ではないか。

 

「知」に「切実さ」が合わさって、初めて人は行動するのだろう。

 

彼の死によって、ぼくも彼の尊い活動を知ることができた。

 

彼の意志を、ぼくなりに継いでいきたい。

 

 

 

ビジネスの依頼をアートで応える

ぼくたちのHPを見て、読んで、理解してくださったとしても、空間の依頼主がアートを求めているとは限らない。

 

もちろん、最初からぼくらにアートを期待してくださる方もたくさんいらっしゃるが、全く求められていないことだってある。

 

しかし、だからといって、単にビジネス的な応答をしては、ぼくらのモチベーションは保たれない。そして、そんなことをしていてはぼくらの存在意義はなく、ビジネスの匂いにまみれた「新自由主義」の世界はよくならないままだ。

 

ということで、今後ぼくらは空気を読みすぎないようにやっていく。

 

ビジネスの依頼をアートで応える。これが正しいやり方だろう。そう、ぼくや久保が学んだアメリカでの建築学は、元々アートとサイエンスの両方にまたがっている。つまりは両方の要素がなければ、建築自体の存在意義が危ういのだ。

 

「ビジネスの依頼はアートで応える。アートの依頼はアートで応える。」

 

「お前のものはオレのもの。オレのものはオレのもの。」っていうジャイアンみたいだけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

建替え

ある案件に建築物の建て替えが含まれていて、①十数年後に隣の土地とまとめて本格的な建替えが見込まれていること、②納期が短いこと、③建物が密集している場所であること、④既存建物と一部が繋げられ、その増築としてつくられること、が条件である中、さまざまな建設会社やメーカーに問い合わせた。

 

納期が短いことから、つくり方が決まっている会社に頼めば建築確認がおりやすく、建設も速いだろうと、在来工法をあきらめ、システム工法を売りにしている会社に絞る。

 

ユニットハウス、プレハブハウス、仮設ハウスなどのメーカーは、①②には向いているが、③④には向かない。

 

ハウスメーカーは②③④には向いているけれど、①にはスペックが高すぎる。

 

結局、在来工法で間に合う会社ある案件に建築物の建て替えが含まれていて、①十数年後に隣の土地とまとめて本格的な建替えが見込まれていること、②納期が短いこと、③建物が密集している場所であること、④既存建物と一部が繋げられ、その増築としてつくられること、が条件である中、さまざまな建設会社やメーカーに問い合わせた。

 

納期が短いことから、つくり方が決まっている会社に頼めば建築確認がおりやすく、建設も速いだろうと、在来工法をあきらめ、システム工法を売りにしている会社に絞る。

 

ユニットハウス、プレハブハウス、仮設ハウスなどのメーカーは、①②には向いているが、③④には向かない。

 

ハウスメーカーは②③④には向いているけれど、①にはスペックが高すぎる。

 

結局、在来工法で間に合うかもしれない会社も含めて、まだ検討中。時間は知らぬ顔をして進んでいく。

 

 

 

 

マッチの燃えさし

ぼくは、アフリカ・タンザニアの北部アルーシャの安宿にいた。

 

キリマンジャロを登り終えて、ケニアに戻ろうとしていたときだったから、きっとタンザニア最後の朝だったろう。

 

宿の部屋に掃除係の少年が入ってきて静かに掃除を始めた。昨夜、蚊取り線香を炊いたから、皿の上に渦巻き状の灰があり、その横にマッチの燃えさしが1本あった。

 

彼が、小さな声でぼくに聞いてきた。ぼくを見上げた目は、ちょっと緊張している様子だった。

 

「これ、もらってもいいですか?」

 

手には燃えさしがあった。大事そうに、手のひらに載せている。

 

そのマッチは日本から持ってきたものだった。

 

遠い日本という国から来たものを手にして、ドキドキしているのがわかる。

 

ぼくは、この瞬間を一生忘れることはない。

 

あのときの少年の目の輝き。

 

今、彼は何をして過ごしているだろうか。

 

人という存在がこんなに愛おしく思えた瞬間が他にあるだろうか。

 

ぼくら日本人から見れば、圧倒的にものがない国、タンザニア

 

子供の頃から働かねばならない国、タンザニア

 

ケニアよりも経済事情が悪く、国境を越えてくると人のサイズが一回り小さくなる国、タンザニア

 

ぼくは、この日本で生きながら、無性にこの国を懐かしく思うことがある。

 

大事なものを、そこで確かに見たからだ。

 

 

 

映画 ボヘミアン・ラプソディー

2018年。イギリス・アメリカ。

 

クイーンの伝記映画。フレディ・マーキュリーの人生を中心に描く。

 

アーティストの才能と孤独。それは、光と影の関係だ。

 

そのコントラストを小さくすれば、普通の人のイメージに近づく。

 

そんな構図が見える。

 

普通の人など、もちろんいるはずもないが、だれもが何かのとびぬけた才能に恵まれているわけでもない。

 

 

このような映画を観たときの爽快感と悲哀は、ぼくらに何を与えてくれるのだろう?