共感ではなく、個人の独自の感覚(単独性)が発見や発明を生み出し、多様な世界をつくっていく。
多様な私というものを保証するのがパブリックである。
ぼくらはパブリックな空間をつくっている。
では、共感というものを求めるべきではないのか?
空間に、共感以前の多様な環境を与えることだ。
ある人にとって不快なものが、だんだんとその人に馴染んでくることだってある。
気になっていた壁のシミが、だんだんとその空間にとって大事なものと感じられることだってある。
そのとき、人は以前よりもより多様な環境に適応できるようになっている。
最初から共感が成立することを目標にすると、予定調和しかなくなる。
今、世の中で共感を得ているもので世の中をいっぱいにしてしまったら、そこで世の中は未来に対して閉じてしまう。
共感は、ずっと後にくればよい。
もっといえば、それは希いであってよい。
共感を保証する新しいものなどないし、すでにあるならもういらない。