ぼくは、アフリカ・タンザニアの北部アルーシャの安宿にいた。
キリマンジャロを登り終えて、ケニアに戻ろうとしていたときだったから、きっとタンザニア最後の朝だったろう。
宿の部屋に掃除係の少年が入ってきて静かに掃除を始めた。昨夜、蚊取り線香を炊いたから、皿の上に渦巻き状の灰があり、その横にマッチの燃えさしが1本あった。
彼が、小さな声でぼくに聞いてきた。ぼくを見上げた目は、ちょっと緊張している様子だった。
「これ、もらってもいいですか?」
手には燃えさしがあった。大事そうに、手のひらに載せている。
そのマッチは日本から持ってきたものだった。
遠い日本という国から来たものを手にして、ドキドキしているのがわかる。
ぼくは、この瞬間を一生忘れることはない。
あのときの少年の目の輝き。
今、彼は何をして過ごしているだろうか。
人という存在がこんなに愛おしく思えた瞬間が他にあるだろうか。
ぼくら日本人から見れば、圧倒的にものがない国、タンザニア。
子供の頃から働かねばならない国、タンザニア。
ケニアよりも経済事情が悪く、国境を越えてくると人のサイズが一回り小さくなる国、タンザニア。
ぼくは、この日本で生きながら、無性にこの国を懐かしく思うことがある。
大事なものを、そこで確かに見たからだ。