live(生きる)とsurvive(生き残る)の違いは大きい。
過去を振り返って、自分が生きているという実感を持てていた時間はどれくらいあるか?
ずっと生き残ってきただけではないか?
と自問する度に、生きていることと生き残ってきたことの境はどこにあるのか、を言語化しようとする。
その度に、答えはどこか頼りなげにずれてくる。
生きている、という実感。自分は、今ここにあるという感覚。
言語化とは考えた末に言葉にたどり着くことだが、「生きている」「実存する」とは、考えたことをひとつひとつ剥ぎ取っていった結果、それでも自分の中に残った欠片のようなものに行き当たる、ということだからだ。
ぼくは、自分の欠片に触れるときが生きるで、そうでないときが生き残るだと思う。
(これが今日の答えだ。)
それを自分の核と呼ぶ人もいるだろうが、ぼくは欠片と呼びたい。たぶん、それは自分をこの世から捨て去ったときに、消えずに取り残されたものに過ぎないからだ。そして、多くの場合、他人はそれに気づかずに、雑踏が踏みつけていく。
では、自分以外の人についての欠片を見出すことはできないのだろうか?
いや、できている人はたぶん少なくない。自分より、他人の欠片の方が見えやすいのかもしれない。
一度、その人に一対一で向かい合えば、きっと見えてくる。
雑踏には見えないのは、向かい合わないからだ。
ならば、一番大切なことは、向かい合うこと。