ぼくらの生まれる前は、まだ「八百屋の子供は八百屋になる」ことが当たり前の時代だった。
ぼくの父親は熊本から東京へ出て行って大企業に就職したが、地方ではまだ珍しいことだった。
その頃から大企業の時代になり、それから60~70年経って、大企業が翳りを見せている。巨大な利権構造がイノベーションを妨げ、官から与えられる仕事でかろうじて生き残った大企業が国とともに崩壊しようとしている。
ぼくが早稲田と京大を受験して熊本へ帰る新幹線の中で、隣の席に乗り合わせた同じく熊本へ帰る年配の人に「熊本の大学へ行きなさい」と言われたのを思い出す。そのとき時代錯誤的に感じたけれど、時代は一回りしつつある。
都会に夢は転がっていない。
自らの意志を強く持った人間には、むしろ自由度が増した、とも言える。かつての教育制度により生み出された金太郎飴みたいな人間たちが、最も生きづらい世の中が到来しようとしているのか?
それはわからない。AIが労働を引き受けてくれれば、働かない人がいても世界は回っていく。では、国からもらうベーシックインカムで幸福に生きる人たちが出現するのだろうか?
富の配分はどうなるか?お金はこれからもずっと必要なのか?
わからない。でも、光を感じている。
人間ひとりひとりの生きる力に集中すればよい。奪い合う必要はない。それぞれの心身がよく生きるために、必要なものを得て、要らないものを捨てる。余分を分け合う。
小さな単位に心を集中して生きられるようになれば、世襲が最も輝ける世界として戻ってくるのではないか?
陽向は、グリッドフレームに入りたいと言っている。