eSportsは、スポーツの歴史の最先端にあると考えていいだろう。
スポーツの歴史は、人類のそれと同じくらい古いと言われている。
人間が動物と分化した頃、狩猟採集の手段として道具を使用し始めて、
生きるために必要な活動から次第に解放されたとき、スポーツが生まれたとされる。
未開社会における成人男女の狩猟採集に費やす時間は1日平均3時間であり、
残りを余暇の時間に当てていたと考えられているらしい。
彼らは人類史上最も余暇に恵まれた人たちであり、
近年の経済生態学者はこの社会を「最初の豊かな社会」と呼んでいる。
最初のスポーツは、純粋に余暇を愉しむためのものだったのだ。
個人の心身を成長させ、生きる喜びを与えるものとしてあっただろう。
その後、農耕が始まり、人が集まって住むようになると、
人は集団のために働き、次第に余暇を失い、
スポーツも軍事訓練など、やらされるものという要素が出てくる。
スポーツは、「個人の愉しみ」と「集団の利益のための手段」という二面性を、
ときには両立させ、ときには矛盾させながら、現在まで変化してきた。
ここで、矛盾しているとは、なんらかの強制によってスポーツをやらせている、ということだ。
近代スポーツは、国民国家の下でそれまでの土着の伝統的スポーツを産業化・規格化し、
「集団の利益のための手段」として機能するスポーツとして発展させた。
そして、現代スポーツは、見るスポーツとしての魅力を拡大することで
国際的に収益を上げることが目標に置かれるなか、
スポーツの本質すら変質させる結果をもたらす例も出てきている。
例えば、柔道は護身術として生まれたものでありながら、
見るスポーツとしての魅力を拡大するためにルールの中に攻撃性が加えられ、
本質とも思われる部分が変更される中で、
国際化に成功しているという矛盾を抱えた競技の一つである。
一方で同じく護身術として生まれた合気道は、護身術であり続けることで、
マイナーな存在のまま本質を変えずに現在に至っている。
このような視点の下に、スポーツの理想的な在り方を考えると、
その根本に「個人の愉しみ」を置き、その結果として「集団の利益のための手段」になっている、
ということが成立する場合においてのみ、個人と集団に幸せな関係が形成され、
スポーツ文化が創造的に継承されていくという結論が導かれるだろう。
つまり、そのスポーツが好きで好きでたまらない人が、
その人の好きなやり方でスポーツに関われる体制をつくることをベースとしなければならない。
残念なことに、多くの優秀な選手たちが「集団の利益のための手段」としての責任に
少しずつ絡み取られていく中で最終的には自由を失い、不幸に陥るケースが後を絶たない。
これを免れるにはどうすればいいのか?
(つづく)