gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

スポーツの歴史の最先端 ~問題提起

eSportsは、スポーツの歴史の最先端にあると考えていいだろう。

 

スポーツの歴史は、人類のそれと同じくらい古いと言われている。 

 

人間が動物と分化した頃、狩猟採集の手段として道具を使用し始めて、
生きるために必要な活動から次第に解放されたとき、スポーツが生まれたとされる。

 

未開社会における成人男女の狩猟採集に費やす時間は1日平均3時間であり、
残りを余暇の時間に当てていたと考えられているらしい。

 

彼らは人類史上最も余暇に恵まれた人たちであり、
近年の経済生態学者はこの社会を「最初の豊かな社会」と呼んでいる。 

 

最初のスポーツは、純粋に余暇を愉しむためのものだったのだ。
個人の心身を成長させ、生きる喜びを与えるものとしてあっただろう。 

 

その後、農耕が始まり、人が集まって住むようになると、
人は集団のために働き、次第に余暇を失い、
スポーツも軍事訓練など、やらされるものという要素が出てくる。 

 

スポーツは、「個人の愉しみ」と「集団の利益のための手段」という二面性を、
ときには両立させ、ときには矛盾させながら、現在まで変化してきた。


ここで、矛盾しているとは、なんらかの強制によってスポーツをやらせている、ということだ。

 

近代スポーツは、国民国家の下でそれまでの土着の伝統的スポーツを産業化・規格化し、
「集団の利益のための手段」として機能するスポーツとして発展させた。

 

そして、現代スポーツは、見るスポーツとしての魅力を拡大することで
国際的に収益を上げることが目標に置かれるなか、
スポーツの本質すら変質させる結果をもたらす例も出てきている。 

 

例えば、柔道は護身術として生まれたものでありながら、
見るスポーツとしての魅力を拡大するためにルールの中に攻撃性が加えられ、
本質とも思われる部分が変更される中で、
国際化に成功しているという矛盾を抱えた競技の一つである。

 
一方で同じく護身術として生まれた合気道は、護身術であり続けることで、
マイナーな存在のまま本質を変えずに現在に至っている。 

 

このような視点の下に、スポーツの理想的な在り方を考えると、
その根本に「個人の愉しみ」を置き、その結果として「集団の利益のための手段」になっている、
ということが成立する場合においてのみ、個人と集団に幸せな関係が形成され、
スポーツ文化が創造的に継承されていくという結論が導かれるだろう。 

 

つまり、そのスポーツが好きで好きでたまらない人が、
その人の好きなやり方でスポーツに関われる体制をつくることをベースとしなければならない。

 

残念なことに、多くの優秀な選手たちが「集団の利益のための手段」としての責任に
少しずつ絡み取られていく中で最終的には自由を失い、不幸に陥るケースが後を絶たない。

 

これを免れるにはどうすればいいのか?

 

(つづく)