「あらゆるデザインの力には、思考力がその源にある。」というクライアントからの言葉。
美的感覚、という言葉がある。デザインが世間に通用するためには、他に美的感覚を必要とするだろう。
例えば、要素を組み合わせることで普遍的に快をもたらす感覚。どちらかと言えば、直感的なものかもしれない。
生まれつきに与えられた力でもありうるし、後天的にさまざまな体験の積み重ねで無意識的に構造されたものでもありうる。
ぼくは思考なしに美的感覚のみで描かれたものは、純度が高いほど価値があると思っている。つまり、そこに思考が入り込んではならない。
例えば、身体的特性がそのまま表れた絵は、その人の分身のように思える。
それは自然現象が描くものと同じだ。ぼくの心はそんなモノに強く反応する。
「無意識的な美的感覚」と「意識的な思考力」が合体すると、多くの場合は中途半端なモノを生み出す。
両者が互いに並び立たないからだ。世の中のデザインされたものが幸福を生み出す力がないように感じられることが多いのは、意識的な(つまり純度の低い)美的感覚というあってはならない不快なものを押し付けられるからではないか?
さて、相反する思考力と美的感覚の両方を活かすことが本来のデザインであるとすれば、どのように実現するのか?
ぼくは、それぞれを時間的に分離することに方法を見い出している。
まず、思考する。そのときは完成するモノを導き出さない。重要なのは、方向付けと空気感を捉えることだ。そのとき重要な創造物は、ストーリーであり、具体的なカタチや素材ではない。
そして、上記の二つを反芻しながら、考えなくてもその世界の中にる、という状態になってから、実際につくりはじめる。
あとは、考えない。潜在的な美的感覚を呼び起こしながら、最後までつくり続ければよい。
結果はそのように「する」ではなくて、「なる」がよい。
そして、結果から振り返って再び考えたことは、次の制作に生かせばよい。