山田太一の2015年の講演を観た。
東日本大震災があまりにも大きな災害であったために、ドラマをつくることが憚られて、ドキュメンタリー番組ばかりを観ていたときがあったらしい。
それぞれに感動しながら見続けたが、ある日かれはドキュメンタリーにある物足りなさを感じ始め、その正体に気づいたそうだ。
それは、「ドキュメンタリーはマイナスを描くことができない」ということだ。
実名を出して、その人の人生を追うとき、その人を善人として描かなければならない、という制約が生じる。その人の悪の部分が見えたとしても、見えないふりをして描くしかない。特にその媒体がテレビである場合は。
山田太一はドラマならばどのような重いテーマでも役者がやるのだから、思う存分悪を描くことが可能であるという。説得力がある。
だが、ドキュメンタリーにも悪を描いた例がある。一例としては、原一男のドキュメンタリー映画が挙げられるだろう。彼は被写体の世界の中へズカズカと入り込む。物腰はいたって柔らかいが、核心をつかんだら離さないしつこさがある。
今後、YouTubeで共感する多くの人との対談を企画している。どこまでその人の世界の中へ入り込めるか、を一つのテーマとしたいと思う。表面だけをなぞらないように。それでは、深い意味で共感を広げていく結果は望めない。
なお、ぼくらはクライアントと初対面のときに長いインタビューを行うが、これも、どこまでその人の世界の中へ入り込んで同じ未来像を共有できるか、をテーマとしている。
どちらも対象の核心に迫っているか?心して臨みたい。