浦島太郎が竜宮城で夢のような時間を過ごした後、帰りにもらった玉手箱を開けるとおじいさんになってしまう話は、「めでたし、めでたし」では終われない。
この肩透かしを食らったような感覚は、子供の頃のぼくにこんな教訓を与えてくれた。
身の丈に合わないくらいよいことがあったら、その後はおじいさんになる。
つまり、とってもよいことは1回きりだよ、と。
ところで、もし自分が浦島太郎だったら、と想像してしまうのはなぜか。
それは、浦島太郎がだれにも取って代われるくらいに無個性な男として描かれているからだ。
この昔話で浦島太郎が自分の意志で行動するのは、二つだけだ。
1.亀を助けること
2.玉手箱を開けること
どちらも、まあ、それくらいは自分だってやるだろう、というレベルのことだが、そこに彼の意志が介在していることは間違いない。あとは、なされるがままに時を過ごしている。
1.の英雄的行為の報酬として竜宮城に招待され、2.の言いつけに背いた行為の罰としておじいさんにされる。つまり、彼の意志が彼の運命を変えている。
では、浦島太郎がもっと個性的な男だったらどうか?彼の意志が、何度も彼の運命を変えて、このシンプルな物語を成立させないだろう。
「開けちゃだめ」と言われた玉手箱を、開けずにいることの方が人間にはずっと難しい。ならば、開けないことこそより強い意志を必要とする。
だれもが手元に玉手箱を持っている。それをあえて開けないで生きていく。夢を抱いたまま生きていく、とはそういうことだ。
グリッドフレームは、そんな人を全力で応援する。