もうポストモダンじゃないよね、と周囲と話したのはいつだったろう。知らない間に、時代は動いていた。
80年代のポストモダン全盛期に大学生だったぼくらは、何もかもが軽く感じられるような時代を過ごした。軽さの背景には、突き詰めていくことに対する虚しさがあったのだろうが。
当時、海外のひとり旅に明け暮れていたぼくだって、突き詰めるポーズを装ってはいたが、実際になにかを突き詰めていたわけではない。
それでも、ぼくは自分自身に対して期待することができた。ひとり旅の中で、おそらくは自分しか見たことのないものをたくさん見れたからだ。
グローバルの時代がやってくる。そう、就職先の先輩から夢を持って語られた。
就職して、海外留学生としてアメリカへ渡ってまもなく、バブルがはじけた。会社は急速に傾いていったようだったが、ぼくは期せずして蚊帳の外にいた。
そして、アメリカにいる3年半で、日本は大きく変わった。ぼくらにとって、ポストモダンの時代が、軽くて空虚だが夢のある時代であったとすれば、帰国した頃の日本は、軽いのか空虚なのかわからない、そして、夢のない時代として感じられた。
つまり、ぼくは竜宮城から帰ってきた浦島太郎になってしまった。日本がどのような時代にあるのかをつかめない。それをわかるように教えてくれる友達もいない。
呆然とするしかなかった。
今は、オルターモダンの時代だそうだ。・・・という言い方は正しくないのかもしれない。「モダンとは別の時代」ということを表しているだけで、なんら積極的な意味を示してはいないのかもしれない。
ひとつはっきりしたことがある。それは、グローバルであること、が前提になったこと。その後に、国がある。今の30代より若い世代には、このような見方が浸透してきている。
マルクスは、資本主義が進んでグローバル化したら、やがて国はなくなる、と考えていたそうだ。
今はそうなっていないが、やがてそうなるのだろうか?
そうなれば、中国や韓国など、隣国といがみ合う時代は終わるのだろうか?
国によって守られるもの、国の犠牲になるもの、がなくなると、どんな時代がやってくるのだろう?
国に変わって、世界が守ってくれるのだろうか?世界はもう人間を犠牲にしないのだろうか?
自分でものを考えることが生きるためにより重要になってくるだろう。
なぜそうするのか。どのようなコンテクストでそうするのか。
常にそれを示し、理解を求める。
言葉の重要性が増してくる。
グローバルな中で生きるとは、そういうことだろう。
ぼくが「オルターモダン」という言葉から感じ取るのは、そんな生き方だ。
アートの世界は、すでにその方向へ向かっているのかもしれない。