昨日、書くことは道を決めていない散歩に似ている、と書いた。
散歩は、最後には家に帰ってくる。書くことも最後は自分という家に帰ってくる。
書いているときは、ずんずん進んでいくが、実は家の周囲からそんなには離れていなかったりする。
家へ帰れなくなるときは、きっと頭が狂ってしまったときだ。時折、家へ帰れなくなった詩人を見かける。
私はとてもそこまでは行けない。どんなに遠くへ行ったつもりになっていても、ちゃんと帰ってくる。
安全圏にいることを、いつもどこかで分かっている。
そうそう、以前、ヨーロッパを旅したとき、地図を全く持たないで、オランダ・アムステルダムからドイツへ向かって歩き始めた。空から俯瞰するような視点を排除したかったのだ。地球儀の上で、迷子になりたい、と思ったのだ。
だが、迷子にはなれなかった。いつも、自分は地球儀のどこにいるのか、を確認したいという欲求から解放されることはなかった。迷子になりたいと思うほど、意志に反して、空からのイメージが頭に焼きついてしまう。
校庭の栗の木の下の草むらの中、リスたちが落ちた栗の実を探して走り回る。
私はそれを高い視点から見ている。栗の実がどこにあるかは私の目からは一目瞭然だ。
リスたちは、ただ走り続ける。身の丈よりも高い草に視界を遮られて。栗の実に出会うまで、ただひたすら・・・。
そう、私はリスのように走り続けることに憧れている。
そんなふうに書き続けたい。
そんなふうにつくり続けたい。
(つづく)