今までに言葉を変えて何度か書いたが、映画の中に極度にシンプルな人間を入れると、リアリティが失われる。じっと観察したとき、“いわゆる”という人間などいない。誰もが揺れ動いている。人間とは、揺れ動く生き物なのだ。
揺れ動く人間ばかりを描いては、ストーリーが分かりにくくなると考えたのだろう。この映画では描く人間を3人に絞った。
1.神父:人を救済するためには教会の運営が不可欠と考えて、気が進まないながらも金持ちに取り入る。(2.の弟)
2.刑事:その金持ちが悪人であることを昔から知っていて、現在捜査が進行している事件もその金持ち絡みであることを確信するが、それを暴くことが弟の地位を奪ってしまうことに悩む。
3.売春婦:若い頃に2.と恋愛関係を持ったが、裏切られて刑務所暮らしを送り、現在も場末の売春宿を経営する。現在も2.に愛情と憎悪を感じている。
これら3人以外は、単なるコマである。このような脚本は嫌いだ。愛に欠けている。
だが、それこそカトリック教会の姿だ、と言いたかったとすれば、主題から来る構造として、見事な脚本とも言えるかもしれない。そこまで考えられたものだろうか?
ともあれ、この話のすべてが神父の「人を救済するため」という動機から始まっていることは最後まで心に残る。
人を救済するため、という場合の「人」は顔の見えないコマであってはならない。カトリック教会のピラミッドの構造で、本当の救済などできるわけがない。人間を救済することは、人に向き合ってその目を見ながら話を聞くことに始まるのではないか?
監督はそういいたかったのだろうか。(監督はプロテスタントなのか?)
もし、私の深読みが当たっていれば、もうひとり人間として描かれた者を見い出すことができる。
4.信者:冒頭で、砂漠の小さな教会に左遷された弟を、年老いて刑事を引退した兄が訪ねたとき、「神父さんが体の調子が悪いために代理で教会の世話をしている」とせわしなくしゃべり続ける。
このような、誰もが忘れてしまうような脇役が人間として生きている世界は、愛に満ちている。