gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

国木田独歩 忘れえぬ人々

心の中の風景に出てくる人々は、内面化されているがゆえに「忘れえぬ人々」である。よって、一旦話をして、その人の自我を感じ取ると、すでに内面に収まらない存在となり、逆説的に、「忘れえぬ人々」になりうる資格を剥奪されてしまう。

例えば、ミレーの「晩鐘」に出てくる農夫たちは、「忘れえぬ人々」としてあるだろう。ミレー、そして、それを観る私たちの心の中では、彼らは信仰心の篤い善人として、描かれる。だが、本当に、彼らと話をしたとしたら、その想いは覆されるに違いない。

風景として人を見ることは、都合の良い自分を対象に映すことであり、ナルシスティックな行為である。それは、その瞬間において、心の安らぎを与えるだろうが、それ以上でも以下でもない。

そもそも、風景自体が近代に発見されたものだと、柄谷行人が書いている。

ずいぶん前に、俳優の柄本明が「笑っていいとも」で、「敦煌の広い風景を見ても、広いと思うだけで何も感じない」というようなことを言っていた。彼は「風景」=「内面」を退ける人だったのだ、と今わかる。

「晩鐘」の農夫たちに話しかけて、心の風景をひっくり返されるような体験を反復するような人生を、私は生きたい。