「・・・かなり感情が鈍磨した者でもときには憤怒の発作に見舞われる、それも、暴力やその肉体的苦痛ではなく、それにともなう愚弄が引き金になる・・・」
あまりのおびただしい肉体的な暴力に感情を殺されても、死なない感情がある。それは、精神的な暴力に対する怒りである。
「このような精神的に追いつめられた状態で、露骨に生命の維持に集中せざるをえないというストレスのもとにあっては、精神生活全般が幼稚なレベルに落ち込むのも無理はないだろう。」
「被収容者はパンの、ケーキの、煙草の、気持ちいい風呂の夢をみた。」
精神的に追いつめられ続けると、難しいことを考えられなくなる。考える余裕がないばかりか、考える意味を見い出すことができなくなるからだろう。ところが、そのような人間ばかりではない。
「強制収容所に入れられた人間は、その外見だけでなく、内面生活も未熟な段階にひきずり下ろされたが、ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。もともと精神的な生活をいとなんでいた感受性の強い人びとが、その感じやすさとはうらはらに、収容所生活という困難な外的状況に苦しみながらも、精神にそれほどダメージを受けないことがままあったのだ。」
この悲惨な体験談の希望はここにある。感性を磨くことによってこそ、人間の最終的な強さに到達できるのだ。周囲に愛のかけらもない状況下で、自身を支えるために、必要なものは愛を存在たらしめる繊細な感性である。強制労働の最中、離ればなれになった愛する妻を思い浮かべ、心の中で会話をする。妻が生きているかどうかはわからない。
「愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)『本質』に深くかかわっている」