gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

「棲まい」づくりとしての住宅リノベーション

「TOKYO STYLE」という写真集がある。1996年、アメリカの大学で建築を学んで帰ってきた直後、書店で吸い寄せられた本だ。

 
「TOKYO STYLE」(都築響一/京都書院)

 
アパートなどの片付けられていない部屋の写真群は、まるで日本の大学時代に友達を訪ねたら、「ちょっとコンビニ行ってくる」とそいつが不在になった瞬間の部屋を眺めるようで、どの部屋にもそれぞれの感傷が巣食っていると言おうか、しばらく黙ってそこに佇んでいたい気分になる。魅力的だ。
 

「すむ」の漢字には、「住む」と「棲む」があって、前者は人間、後者は動物に使われる、という。この写真集で表れているのは、「棲む」の方かもしれない。人間の動物的側面が強く感じられる。
 
整頓された部屋を散らかった部屋よりも優位に置く、という人間の一般的認識はたぶん動物にはない。人間だって必ずしも整頓された部屋が散らかった部屋よりも暮らしやすいわけではないだろう。空間にカオスが見えるとき、人間の動物的能力が研ぎ澄まされる。それは「棲まい」という言葉の方がふさわしい。
 
一般に大学で教えられる「建築」は、この写真集とは別世界である。建築と言えば、もっと「立派な」もののことを指すのが世間一般の常識でもある。ぼくはそんな「建築」や「デザイン」に魅かれながらも、人間的には「棲まい」に暮らす人々に強く共感していた。つまり、いわゆる「建築」やら「デザイン」やらには目もくれない手ごわい人間たちに。
 

自分の共感する人のために、自分が良いと信じる空間をつくりたい。その当たり前の願いが叶うのはとても困難に感じられた。なぜなら、「TOKYO STYLE」に載っている「棲まい」は、全てそれぞれの部屋の持ち主が自分でつくった空間であり、他人に依頼してつくられた空間は一枚もないからだ。ぼくは、この写真集に魅入られながら、同時に暗澹たる気持ちになった。「棲まい」はつくれない、と。
 
その後、ぼくはGRIDFRAMEを立ち上げ、20年以上に亘って店舗空間づくり中心の仕事をすることになる。店舗のメインターゲットは常にカスタマーであり、依頼主ではない。依頼主とは、同じ方向を見ることになる。第三者の心をイメージしながら、お互いを補強する。だから、原則として、力を妨げるものがない。持てる力を出し切ることができる。店舗をつくることは、ぼくが矛盾を感じることなく仕事を続けていくための戦略でもあった。
 
上に書いたように、住宅はつくれないと思っていた。店舗空間とは違い、依頼主のための空間づくりは、同じ方向を見るというより、向き合うことになるのではないか、と。そうなると、どのような依頼主であろうと必然的にぶつかり合いが生じる。力のベクトルは互いに先をへし折られることを繰り返すのではないか。
 
そう考えている中で昨年、住宅リノベーションの依頼をいただいた。依頼主にお会いするまで、ぼくらは受けることは難しいかもしれない、と思っていた。
 
 
依頼主にいつものようにインタビューさせていただいたとき、衝撃を受けた。この依頼主は彼の生きる根幹に関わるような「棲まい」を求めていらっしゃることが分かったのだ。そして、「中途半端なデザインにしたくないから、お任せします」と。そのことが、どんなにぼくを勇気づけてくれたか、分からない。
 

ぼくが「棲まい」をつくるように依頼されたのは、お話をした短い時間の中で、依頼主と同じ方向を見ていることを直感してくださった、ということだ。そして今、施工を終えて、ぼくらが集団として、依頼主と一体化しながら持てる力を出し切ることができた、という感触を持っている。
 
依頼主がご自身として生きるための空間づくり。そこには、カオスが必要だ。空間を引き渡したときの依頼主の言葉を借りれば、「空間に入ってきたときに、自然に押し黙ってしまう」ような類いのカオスが。
 

ピラミッド

「肉食動物ー草食動物ー植物」の食物連鎖は、個体数の関係で、肉食動物を頂点としたピラミッド型に描かれる。

 

このピラミッドの頂点にあるライオンを「百獣の王」と呼ぶように、暗黙の裡に、上位に在るものほど羨まれる存在とされ、下位に在るものほど蔑まれる存在とされる。

 

だが、これは人間社会をモデルとする人間の勝手な解釈であり、実際は上下などあるはずがない。天敵がいない肉食動物であったとしても、狩りをして食わねばならない、という厳しい条件の下に生きている限り、見渡す限り緑の草原にいる草食動物より彼らが優位にあると誰が言えるだろうか?少なくとも「幸せ」を基準にすれば、上下は言えない。

 

人間社会のモデルは「支配者ー被支配者」のピラミッドが描かれることがある。人間の活動は、「生産」と「消費」にスポットが当たることが多いが、「分解」がなければ活動を継続することはできない。「分解」を担うのはピラミッドの底辺にある者たち、という視点が歴史的に存在した。

 

今、「生産」「消費」「分解」をフラットに並べて「分解」にもスポットを当てることで、歴史的な価値観を変えて、世界にさまざまな変化をもたらすことができるかもしれない。

 

SOTOCHIKUもその一つの活動と位置付けている。

 

 

いつもカメラを携帯して

ぼくは、スマホが行き渡るずっと前から、いつもカメラを持って、心を惹かれる何かに遭遇したら、パシャリとシャッターを押す生活を続けてきた人を複数知っている。

 

歩く。何かに出会い、心が動く。その瞬間に写真を撮る。現像する。写っているものを初めて出会ったように見入る。

 

記憶を遡らない。つまり、2度出会うことになる。

 

一度目の出会いと二度目の出会いは、別々の出会いだ。質も量も、そして見ているものも違う。

 

一度目は瞬間的、運命的な発見。

 

二度目は時間をかけて、味わい、思考しながらの発見。

 

当然、自分に残って、養分になるものも違う。

 

カメラを別のものに変えたとしても、何かとの出会いは、必ず2回あると思っていい。

 

 

中学・高校の頃

中学・高校の頃の思い出は輝いて見えない。

 

それは、これといった目標を明確に持てなかったからだ。

 

必死になって頑張れることがなくて、中途半端に過ごしてしまった。

 

もし、そんな状態の自分が続いていたら、ぼくは壊れていたかもしれない。

 

高3のときに自殺したクラスメイトがいた。

 

ぼくは死を賭けてなにものかと闘った彼を憐れむ気持ちには到底なれなかった。

 

むしろ、自分も彼のように闘わねばならない、という気持ちを強くした。

 

資本主義社会には、中途半端な人間をそのままにとどめようとする力が働く。

 

なんとなく生き永らえさせて、社会に都合の良い歯車として取れるだけのものを搾り取ろうとする力が。

 

目標を持たない者は、その力に絡めとられ、気づかないうちに潰される。

 

今だから、そんなふうに言葉にできるけれど、その頃のぼくはただ焦燥の中に沈んでいた。

 

そこから出たい、という強い気持ちがなかったら、ぼくはどうなっていただろう?

 

 

 

 

考えること

 

国家の国民に対する見えざる暴力に、考えることを制止する仕掛けがある。

 

マスコミと一体になって、あるストーリーを信じ込ませ、安心させる。もしくは、見当はずれなことを心配させる。取るに足りないことで、頭を一杯にさせる。

 

国家が考えていることは、いつもその国の人間をコントロールすることだ。

 

といいながら、その罠にはまっている自分にホッとすることもある。

 

みんなも一緒、と言いながら。

 

いつも闘ってばかりはいられない。

 

ときには休んで、「やるときゃやります」って感じでよい。

 

 

 

 

バタヤ

戦後、浅草の言問橋の周辺、隅田公園辺りに、「蟻の町」と呼ばれる屑拾いを業とする集落があったそうだ。屑拾いをバタヤと呼んだ。

 

みな落ちて、ここへたどり着いた。そんな場所だ。そして、みんなしょうがなく、バタヤを始める。

 

1回目は、みな恥ずかしさとの闘いらしい。でも、その後は、どんどん愉しくなってくる。

 

世間からの差別の目はあったが、幸せに暮らしていたようだ。ここを抜け出して、まっとうな暮らしをしたい、という気持ちはそれなりにあったが、果たして「まっとうな暮らし」なるものが、これほど幸せなのか?という疑問は、当人たちにも既にあったようだ。

 

むしろ、「まっとうな暮らし」側の方から、バタヤへの転向を検討した方がよい人はいっぱいいるかもしれない。

 

 

生成と分解

つくると同時に壊す。。。

 

壊すと同時につくる。。。

 

成長すると同時に老いる。。。

 

老いると同時に成長する。。。

 

子供は成長しながら老い、老人は老いながら成長する

 

両者が同じ時空間を過ごすことで平衡が保たれる

 

「あのようになりなさい」といわれ、同時に

「あなたらしくいなさい」といわれる

 

それが、

「自分らしくいよう」と思い、同時に

「あのようになりたい」と思う、に変わっていく

 

ずっとダブルバインドのまま進んでいく

 

どちらかしかない、ということはない

 

 

 

 

本当の芸術

 

一月万冊のyoutubeで、ロシアのショスタコーヴィッチのことを安富歩が話していた。

 

彼は、スターリンの圧政下にあって、音楽に規制を加えられながら、一見従ったように見せかけて、支配側に分からないようにつくりたいものを散りばめた。そのために、生前弾圧を受けることがなく、優遇された人生を送った。

 

スターリンの死後、彼の音楽は世界的に再評価され、彼の能力を最大限に発揮した音楽を残すことができたそうだ。少なくとも、彼の血肉が音楽として結実している、と言う。

 

安冨氏の主張は、共産主義の下では彼のような本当の芸術をつくりつつ、豊かな生活を送れた人間がいるが、資本主義の下ではそういう人がほとんど見当たらない、ということだ。

 

例として、スターウォーズなどの音楽で大きな成功を収めたジョン・ウィリアムズの音楽は、後世には残らないだろう、と言う。彼の血肉と彼の音楽との関係を見出せない、と。

 

だが、少数ではあっても資本主義の下でも、本当の音楽に達することができた人もいる。安富氏が挙げたのは、ジョン・ケイジだ。彼は、幼稚園の送迎バスの運転手を続けながら生活をし、音楽ではお金を稼げなかっただろう、と。

 

今後、資本主義がコロナによって変質していくならば、どのように本質的な仕事をするのかをイメージすることが大事で、上記の3人を比較してみることは自分の道を描くのに有益だ。

 

以前に、本当の文化、とは、文化を忍び込ませることにより、感受される、と書いたことがある。

 

https://gridframe.co.jp/information/concept/misunderstanding-about-store/

 

これは、上記の問題について、ぼくが考えているひとつの答えだ。

 

 

映画 れいわ一揆

2020年。原一男監督。アップリンク吉祥寺にて、制作本にサインをいただく。

 

世の中が変わろうとしている時期に、この映画を観るインパクトは大きいだろう。

 

最初に、安冨歩氏によって提示される「極端なリベラルか、それとも、システムの外へ出るか」という選択肢の両方を行こうとする山本太郎氏は、すでに論理矛盾の中にあり、現在れいわ新選組が置かれている状況はまさにこの二つが引き裂かれる過程にあることを示している。安富氏の予言通りだ。

 

システムの外へ出る、とは何を意味するのか?もし、世の中がそれに追随したとしても、直ちに新しいシステムを確立しない限り、古いシステムにまた戻ってしまう。資本主義には、そんなしつこさがあるらしい。

 

ぼくは「創造性の連鎖」から派生して、新しいシステムをつくれないものだろうか、とふと考える。このシステムは普遍的なものなのか?資本主義下だからこそ、意味のあるものとして見えるのか?

 

例えば、少数精鋭の組織でなければ成り立たないシステムであれば、社会を変革することはできないだろう。

 

そのことについても、アイディアはある。実験を進めていかねばならない、と強く思う。

 

考えがまとまらず、お話することができなかったが、以上の考えを進めてくれる映画だった。

 

 

ガラス工房での実験

今後、ぼくらがつくりたいものを探究する目的で、調布のガラス工房を訪れて、ガラス作家さんにお願いして実験を進めていただくのを見学に行った。

 

熱にできることは多様で、ぼくらの想像を軽々と超えていった。

 

徐冷庫に入れられたテストピースは月曜日夕方には冷めて、結果を目の当たりにできるはずだ。

 

愉しみでならない。

 

 

映画の感想について

れいわ一揆はまだ観に行けていないが、観た人の感想をネットで先に読んだ。

 

わざわざ安富歩氏に対するネガティブコメントを延々と書き連ねている人が数人いた。まあ、本人の自由だが、この手の人は今が時代の変わり目であるという意識をほとんど持っていない人ではなかろうか、と思う。

 

世の中にはこんなお気楽な人たちがまだまだ多い。わざわざ4時間以上の映画を観て、それかい。。。

 

 

 

 

善人の沈黙

原一男の映画「れいわ一揆」の中に「悪人の暴政よりも善人の沈黙の方がより社会を悪化させる」という言葉が出てくる。

 

ぼくは見た目は善人に見られやすいこと(w)と、言葉数が少ないことから、「善人の沈黙」の代表格のように見られることが多いような気がする。このことは、好む好まずにかかわらず、自分をカモフラージュしてくれているように思う。世界をじっくりと観察し、静かに、ひっくり返す準備を進めるには都合がよい。

 

きっと世の中には、「善人の沈黙」のふりをして、暗闇で明るい場所を見ている人間がたくさんいるに違いない。

 

その数は、コロナ禍に入ってからどんどん増えているはずだ。

 

 

大切なもの

大切なものは、いつもそばにある状況では、そのように認識されない。

 

それを取り上げられることによって、強く認識される。

 

それを欠いてしまったときの欠落感は、人の行動を変える力を持つ。

 

心の飢餓状態をつくり出すことで、自分を無理強いすることなく動かすことができるかもしれない。

 

動くことが大事なら、やってみてはどうだろう。

 

 

貧しさをベースに

この世界は、貧しい生活をしている者が必要なものを手に入れながら生きる場合と、裕福な者が必要だろうと親などが考えるものをすべて与えられて生きる場合の2種類があって、後者に対する憧れが一般的なものとしてある。

 

だから、親はできれば子供に自分が必要だろうと考えるものをすべて与えようとする中で、子供たちは生きている。

 

では、子供にとっては、どちらが幸福だろうか?

 

貧しさの中に育った子供は、もちろんその貧しさのゆえに、道を踏み外してしまう、という例もあるだろう。

 

しかし、この時代にあっては、半世紀前と比べて食費は下がっているから、飢える子供は少ない。食が満たされてさえいれば、子供が欲しいと心から願うものを持って、それを求めていく生き方ができたとすれば、それはこの上ない幸福ではないだろうか?

 

自分が求めもしないものを、親から押し付けられ、大切な子供としての時間を塗りつぶされていくことが、子供にとって幸福でありうるだろうか?

 

大切なことは、自分が夢中になって追い求めるものがあるかどうか、だ。

 

与えられることの過剰は、押し付けられることの過剰になる可能性がある。

 

こんな一般論をシンプルに一人の子供に当てはめることができはしないが、貧しさをベースに置いた方が、人間の心にはむしろやさしいのかもしれない。

 

悩ましいところに立っている。