gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

映画 バラフライ・エフェクト

2004年。アメリカ。

 

過去に戻ることができる特殊能力を持った主人公が、ある地点へ戻ることを繰り返して、だれも不幸にならない結果にならない限り、それを止めない。

 

その度に、主人公の境遇も変わるから、次の地点へ戻ろうとしても、それ自体に困難が伴うこともある。

 

この手の映画はアメリカ映画に多いが、そこから読み取れるのは、「人間の性格は境遇によって規定される」という信念である。

 

「一人一人の違いは、持って生まれた能力の違いによっては決まらない」。実際に、この映画の中では、どの地点に戻るかによって、何度も立場が逆転する。それを前提とすることは、「人種のるつぼ」といわれる国としては最重要の視点であるかもしれないが、その一方で、「人はとりかえのきく存在である」という視点を簡単につくり出してしまう一面を持っているかもしれない。

 

アメリカという国を現在のようにしてきたのは、この信念によるのではないか?

 

 

陽向の愉しみ方

陽向からちょっと目を離すと、PCのwordにめちゃくちゃな文字を打ち込んで、それをPCに音読させて遊んでいる。

 

これを愉しむ陽向を見ているのは、とても心地の良いことだ。

 

アートの入り口ともいえる。

 

こんな活動を意味のないことと言って邪魔しないように気をつけよう。

 

 

 

文章を書く力

陽向の文章を書く力の不足が受験のネックになっている、という問題がある。

 

陽向を見ていると、彼は文章を書くのが決して嫌いではない。

 

何かを書き始めると、何時間も嬉々として書き続ける。

 

うまい文章ではないが、面白いことを書く。

 

だが、例えば、「これについての感想を書いて」となると、鉛筆が止まる。

 

レスポンスとしての言葉が、なかなか出てこない。

 

それは、ひょっとしたら彼の誠実さから来ているかもしれない。

 

彼から飛び出してくる言葉は明らかに彼のものだが、レスポンスとしての言葉は彼でなくても同じ言葉を誰かが書くようなものしか浮かばなくて、それを書くことを彼のどこかで断固拒否しているようにも見える。

 

もちろん、彼の言葉の理解力不足が手伝っていることは明らかだ。彼が理解力を増したとき、書きたくなることはどんどん出てくるかもしれない。

 

だが、社会が彼に求めるのは、彼が関心を示さないことについても、なんらかの美しい答えを返せる能力を身に着けたことを証明することだ。

 

これは一種の暴力ではないだろうか?

 

ぼくもこうして書いているときに、同じ理由で書く気にならないことが多いから分かる。

 

考える力を身に着ける、という耳障りのよい言葉の奥に、暴力を感じる感性を身に着けることは、これからの時代を生きるために必要ではないか。

 

 

濡れ衣

 

冤罪によって死刑になる人。

 

その人の心は想像できないまでも、想像してみる。

 

その人の外側にいる人に信じてもらえないことはさほど痛みではないかもしれない。

 

だが、その人の内側にいる人に信じてもらえなかったときの痛手は計り知れないだろう。

 

人間が壊れてしまう。

 

 

植え替えの時期

収穫期が終わりを迎えようとしている。

 

野菜の茎や葉は急速に力を失い始めて、新しい実はもう育たない。

 

植え替えの時期だ。

 

イカやトマトの木を抜き始める。みんな驚くほどあっさりと抜ける。

 

なんと潔いのだろう。

 

それらを畑の一角に積んでいくと、一週間後には体積が5分の1くらいに減る。

 

つまり、5分の4が残った命だったのだ。

 

積まれた木の香りを嗅いで心にとどめようとする。

 

 

映画 ウォッチメン

 

2009年。アメリカの人気コミックを映画化したSF。

 

この手の映画はあまり見ないけれど、ストーリーの結末がぼくの高校3年生のときに考えたことと同じだったことに驚いた。

 

なぜ2009年に、1980年代の米ソ冷戦を背景とした映画がつくられたのかわからないが、あの頃はきっと核戦争で世界が破滅するという危機感が世界中に広がっていたのだろう。

 

ぼくも米ソのケンカをやめさせるには、宇宙人が地球を攻撃するふりをするのがよい、と考えていた。この映画の結末は全く同じだった。

  

首謀者エイドリアンは超人となったジョンに濡れ衣を着せる。結果を見て、ジョンは納得するのだが、エイドリアンは最初から皆に計画を話せばよいのだ。わざわざ裏切る必要はない。

 

「争いを止めるには、第三者がもう一段階大きな争いを仕掛けるとよい」

 

 実は、これはグリッドフレームが、生きるためには「外部性」が必要だ、と主張しているのと同じ構造かもしれない。

 

もしくは、人類が神を必要とするか、という問題にも通ずる。

 

あの頃は、米ソという拮抗する二つの力をどのように抑止するか、という問題だったが、今の争いはあの頃ほど単純な構造ではない。

 

許すか、許せないか?構造自体を憎む人間の内部にまで入り込んだ闘いだ。

 

システムが必然として孕む暴力性。人類は、途方もない何かを敵と認識し始めている。

 

 

 

 

 

暴力

「学校の先生は、子供に対してよくしようとすればするほど、暴力性を帯びてしまう。」

 

それは、システムにからめとられるからだ、と清水有高はいう。

 

あるシステムの中では、そうなってしまうことが不可避であり、システムそのものを変えなければ、実現できないことがたくさんある。

 

なぜそうなってしまうのか?

 

この疑問を徹底的に解決しようとする粘り強い思考をだれもが必要としている。

 

 

住宅をデザインする

グリッドフレームはこれまでの22年間、ほとんど住宅をつくってこなかった。

 

それは、店舗が直接的にクライアントのための空間ではなく、カスタマーのための空間であるため、クライアントと同じ方向を向いて空間づくりを進められるのに対し、住宅はクライアントのための空間であるために、クライアントと向き合って空間づくりをしなければならない、と決めつけてそのイメージに勝手に窮屈さを感じてしまっていたからだ。

 

しかし、KZ邸の空間づくりは決してそのようなプロセスではなかった。店舗と同様、クライアントに向き合うのではなく、同じ方向を向いて空間を考えることができた。

 

クライアントと「のっぴきならない」何かを共有することができたからである。

 

それは、ぼくの言葉で言えば、住宅に「外部」を取り込むことだ。

 

クライアントの言葉で言えば、「洞窟(ほらあな)に籠ること」。そして、「海外で暮らしていた子供の頃、緑青を吹いた銅板屋根の古い教会へ連れていかれると子供ながらに空間に圧倒され、押し黙った」その空間性を住宅の中に実現することだ。

 

この社会の見えない暴力性に晒されながら、ぼくらは生きている。

 

 暴力とは、自分がやりたくないことを強要されること、だ。私が私であることを認めてもらえないこと、だ。

 

そんな暴力から身を守る場を持たなければならない。

 

クライアントにとって、「洞窟」や「古い教会」はそのような場の象徴なのだ。

 

 

 

 

 

ムカデ

真夜中に台風10号が吹き荒れる九州にいる母や姉家族のことを心配しながら、何事もない東京のことを何か申し訳ないような気持ちで電気を消して寝ようと横になっていたら、突然耳の後ろに針で刺されたような痛みを感じた。

 

この痛みが消えないので枕元を見てみたら、5センチくらいの小さなムカデが動いているのが見えた。親子3人で寝ているベッドの上は騒然となった。

 

まずはムカデを捕まえて退治。陽向がアレルギー体質のため、我が家には抗生物質があったから助かった。痛みは朝にはほぼなくなっていた。

 

ムカデは畑で見た種類のものだったから、きっと畑から運んできてしまったのだろう。元々、攻撃的な虫ではないから、ぼくの頭が乗っかってきてびっくりして噛んじゃったんだろう。ムカデの身になると気の毒だ。

 

朝になって母や姉にラインで報告すると、母が「東京が一番被害が大きかったねー」と。そちらは無事でよかったよかった。

 

 

 

 

台風

 

 九州に台風10号が接近して、まるで戦争で敵が攻めてくる直前のような心境だ。

 

母親は、対策をやるだけやったら、家の1階で睡眠薬飲んで熟睡するつもりと言う。

 

いやいや、何かあったらすぐに動かなきゃいけないから、他の人もいるコミュニティセンターへ避難した方がいい、と勧める。

 

台風は、毎年どんどん勢力を増してくる。昨年は千葉が大きな被害を受けた。

 

いつ来るか数日前に分かるから、準備はできるが、それだけに直撃を受ける場所には恐怖の時間がある。

 

結果的に、大きな被害は免れたとしても、この恐怖の時間の存在は精神的な負担になる。

 

これを一年に何度も繰り返すのはタフだ。

 

 

モード

陽向はモードによって落差が大きくて、ほとんど何もできなくなるときもあれば、なんでもできるときもある。

 

今までは、前者のモードが大半を占めていたから、周囲にもほとんど取るに足りないような扱いを受けることが多かったし、それは致し方ないことでもあったが、親以外に後者のモードを見逃さなかった人がいたおかげで、陽向は頻繁に後者のモードにいるようになってきた。

 

人間が、内的なスイッチによって、こうも違うのだということに改めて感動する。

 

これから少しずつ、モードを自分でコントロールできるようになってくるだろう。それまでは、伴走者が必要だ。

 

あと少し。光がもう見えてきている。