陽向の文章を書く力の不足が受験のネックになっている、という問題がある。
陽向を見ていると、彼は文章を書くのが決して嫌いではない。
何かを書き始めると、何時間も嬉々として書き続ける。
うまい文章ではないが、面白いことを書く。
だが、例えば、「これについての感想を書いて」となると、鉛筆が止まる。
レスポンスとしての言葉が、なかなか出てこない。
それは、ひょっとしたら彼の誠実さから来ているかもしれない。
彼から飛び出してくる言葉は明らかに彼のものだが、レスポンスとしての言葉は彼でなくても同じ言葉を誰かが書くようなものしか浮かばなくて、それを書くことを彼のどこかで断固拒否しているようにも見える。
もちろん、彼の言葉の理解力不足が手伝っていることは明らかだ。彼が理解力を増したとき、書きたくなることはどんどん出てくるかもしれない。
だが、社会が彼に求めるのは、彼が関心を示さないことについても、なんらかの美しい答えを返せる能力を身に着けたことを証明することだ。
これは一種の暴力ではないだろうか?
ぼくもこうして書いているときに、同じ理由で書く気にならないことが多いから分かる。
考える力を身に着ける、という耳障りのよい言葉の奥に、暴力を感じる感性を身に着けることは、これからの時代を生きるために必要ではないか。