gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

文化は結果である

文化を目的として掲げても、文化は生まれない。

 

生物として生き残るために、社会生活が変化を余儀なくされたときに、懸命に現状を打開する局面で文化は生まれてきた。

 

だから、文化は結果として生まれる。

 

例えば、14世紀にペストが流行したとき、キリスト教が何もできなかったがために、中世が終わり、科学や芸術が急速に花開いたルネッサンス時代へ移行した。 

 

文化を生み出したいのであれば、文化の創造に結果としてつながる、より動物的な欲求を喚起する仕掛けをつくらねばならない。 

 

SOTOCHIKUも、捨てるしかないと思っていたものが換金される可能性にどのくらいの方が反応してくださるのか、という動物的な欲求を動機とし、結果として文化を高めていくことを意図している。

 

だがきっと実践のためには、文化の創造につながるという見通しなど、黙っていた方がよいのだ。

 

 

スイカとメロン

苗を買ってきて、スイカとメロンを畑に植える。

 

これから、ちょっとずつ毎週週末に植えていく第一弾。

 

まずは、陽向のリクエスト。YouTubeで植え方、育て方を調べて、スイカは1m離して、メロンは80㎝離して植える。タブレットでその場で確認できるから便利だ。

 

お隣の畑のおじさんが、苗が倒れないようにと棒と紐をくださった。

 

陽向もよく動いて、なんとかカタチになった。

 

いきなり、難しいものにトライすることになったが、さて来週はどうなっているか愉しみだ。

 

 

日本という国

これまであまり日本という国に対して疑問を抱いたことはなかった。

 

だが、今回のコロナ騒動によって、国は自分の生活を守ってはくれない、ということを実感した、という人は多いだろう。

 

何もしてくれない国、日本。そういうイメージが強い中、検察官定年延長法案が審議される。

 

国民が生存の危機に晒されている今、なぜ?

 

そう感じる人が増えているのをTwitterで確認できることは、今後のこの国を変えていくだろうか。

 

 

 

 

 

 

お笑い

2013年、大阪の文の里商店街を復興させようと200枚のポスターがつくられたそうだ。

 

このポスターが有名になり、ポスターの総選挙が開催され、グランプリになった漬物屋さんはポスター制作中に閉店したらしい。

 

そのポスターのコピー、「ポスター?はよつくってや。死ぬで。」がいかにも大阪っぽくて笑ってしまう。おじいちゃんがそこに立っているようだ。

 

他にも傑作が並ぶ。どれも笑える。

 

きっとかなりの動員効果もあっただろう。

 

笑いが人を動かす。それは、笑いの中に背景にある様々なことが含まれているからだ。

 

 

畑を耕す

家族3人で畑を耕す作業。防風林に囲まれた丘の上の農園。午後遅くなったため、ぼくら以外に誰もいない。

 

100㎡ほどの畑を、ぼくがスコップで掘り起こし、妻が鍬でならし、陽向が雑草を取る。

 

雨がやってきた。静かな雨だ。火照る体をちょうどよく冷やしてくれる。

 

さあ、これから何を植えようか?

 

 

Why so serious?

YouTube・The First Takeで女王蜂のアヴが「火炎」を歌うのを見て、戦慄を覚えた。

 

「何も封じ込められることのない世界へ」

 

GFのHPのタイトルをそう変えた。

 

歌詞の中に「Why so serious?」とある。

 

周囲の冷静を装った人間たちに、そう言われながら殺されていくものが、この世には山のようにあるのだ。

 

それは、今のままで変わるまいとする人間たちが、変えようとする力を封じ込めるための呪いの言葉だ。

 

呪いの言葉を発している者はそのことに気づいていない。

 

封じ込めることができない火炎のように、消された後も思いは残る。

 

「Party is over それでも踊りたかった」

 

 

 

 

哲学はいつ必要とされるのか

コロナ禍の時代になって、生き残りのためには哲学はいらない、という人がいる。

 

だが、そんな人は、きっとコロナ前だって同じことを言っていたに違いない。哲学はよく分からないから無用だ、と。

 

確かにグローバル資本主義の下には、哲学は必要なものと見做されてこなかった。

 

そうして、スピリットなき「とりかえのきく世界」が成立してしまったのだ。

 

そして、その世界がいとも簡単に壊れてしまったのは、予定調和が崩れたからだ。

 

哲学をいらないという人は、予定調和的に物事を見る人であり、その人たちが信じていた世界が今、崩壊しているのだ。

 

今、哲学を持たなければ、ぼくらは未来へ手渡すバトンを失ってしまう。

 

 

緊急事態宣言が解除されるとき

緊急事態宣言が5月末まで延長された。なぜ?誰もその理由を説明してくれない。

 

では、どのような条件がそろえば、緊急事態宣言が解除されるべきか?

 

信頼できる医師にご意見を伺ってみた。

 

医師として見れば、宣言が解除されるべきときは、新型コロナにかかってもほとんどの場合死なない、という見通しがついたときだろう、と。例えば、インフルエンザのレベルまで致死率が下がれば、ひとまずぼくたちは安心できる。

 

その安心感がない中で、みんなが活動を再開したら、死者は激増するかもしれない。(感染者数は検査数が少なすぎて、事実を表しているとは思えない)

 

今回の宣言の延長は、重症化を抑えるなんらかの方法が見つかるまで待とうとしているのではないのか?

 

なお、その方のご意見では、政府はマスクを配る代わりに、アビガンを配るべきではないか、と仰っていた。

 

アビガンが認定を取れるまでには実験や手続きにまだまだ時間がかかる。しかし、緊急事態であるこのタイミングならば、強制ではなく、飲みたい人は飲んでください、という配り方ができるのではないか、と。

 

もちろん、経済の専門家の目で見れば、別のタイミングがあるだろう。いずれにせよ、政府によってその指標が示されなければ、みんなただダラダラと休んではいられないだろう。

 

 

均質な空間を消し去ることができるか

コロナ後の空間はどうなるか?というキーワードで検索すると、隈研吾のインタビュー記事が載っていた。(日経ビジネス

 

・・・・・

「誰もが好きな場所で暮らせる」といった自由がテーマとなり、テクノロジーがそれを可能にするのではないでしょうか。

(中略)

 今日の技術ならば都市部に通勤しなくてもリモートワークで仕事ができます。今回のコロナ防疫で実際に多くの人が体験し、そのことを理解したはずです。これからは「一極集中主義」と「経済活性化」が一体であるという考え方が成立しなくなります。コロナ禍は20世紀型の構造から脱却するきっかけになるでしょう。働き方や暮らし方などについて、人の意識も変わらざるを得ません。

(中略)

徒歩や自転車で移動できる圏内で働いたり、生活したりするヒューマンスケールのコンパクトシティーが求められるようになるでしょう。

・・・・・

 

ぼくらの仕事で言えば、工場(工房)で作家的にモノをつくりあげていく部分や現地で空間をアセンブルしていく部分は、なかなかリモートワークというわけにはいかないが、その他、設計・打合せなどについてはできそうだ。

 

自宅の近くのカフェで働くなどは、今までもときどきやってきたことだ。

 

社会全体にリモートワークが定着してくれば、建物はずいぶん空いてくるはずだ。そうすれば、広々とした工場を交通の便の良い場所に確保することができる時代になるかもしれない。

 

オフィスはたまに集まるためのもので、SOHOでかまわない。

 

職場の執務室のみならず、学校の教室もなくなれば、そこで自然とたきつけられる競争心もなくなるかもしれない。そうして優越感や劣等感が生まれるきっかけがなくなれば、自分の本質に目が向き始めるのではないか?

 

20世紀から世界を席巻してきたあの均質な空間に身を置く必要がなくなり、この世からそれらが消えていくならば、間違いなく「とりかえのきかない世界」は近づいてくる。

 

 

SNS

コロナ禍にあるこの時期が、テレビの時代でなくてよかった、と心から思う。

 

正しい情報をテレビから得ることはできないからだ。

 

youtubeで情報を得ている人が世界の人口の何%を占めるのかわからないが、ここで信じられる番組を絞っている人は、情報が混乱しやすいこの時期を落ち着いて過ごすことができていると思う。

 

 

昭和の日

この日が「天皇誕生日」から「みどりの日」に変わり、その後「昭和の日」となったのが2007年だったということを今まで知らなかった。

 

祝日というものをどちらかと言えば嫌っていたから、興味が持てなかったのだ。

 

だが、ゴールデンウィークの初日であるこの日は妻の誕生日でもある。

 

元号が令和に変わり、昭和が遠ざかっていくのを感じながら、この日が昭和の日であることの意味を初めて実感している。

 

昭和の日に、昭和生まれの妻の誕生日を、千葉の昭和の森公園にて、昭和の遊びをして家族で過ごす。

 

今日は、千葉の山へ畑を借りるために見に来たためだ。緑溢れる静かな丘の上に広がるのは、変わらぬ昭和の景色だ。

 

 

なにもいらない

このような時期は、資本主義を牽引してきた個人の欲望は縮小しているのか?

 

物欲が強いと自覚している人たちも、どちらかと言えば「ものにつかない」という人たちも、きっと「ギリギリのところで必要としているものは何か」を自問しているに違いない。

 

「自分だけが失う」のと「みんなで失う」のは全然違う。もう少しこの事態が続いたら自殺者が激増する、という心配をする人がいるが、戦時中、食べ物がなくても自殺者が多かったわけではないように、きっと生きようとする力の方が勝るだろう、というのがぼくの予想だ。

 

そんな経験をしたときに、この世界は変わるかもしれない。

 

事態が収束して、「ほとんど前と変わらない」「いや以前よりも悪くなった」という人がいるとしても、深層で何かが変わるだろうとぼくは信じる。