gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

SOTOCHIKUに寄附を

ぼくらの生活は、ただ懸命に生きているうちに、いつの間にか時間を刻印されたものに囲まれていて、それらは無意識のうちに居心地をよくしてくれていると同時に、時折目を向けるとそれぞれがかけがえのない過去の記憶をぼくらに呼び起こしてくれます。

 

残念ながら、建物が寿命を迎えると、時間を刻印されたものたちは通常、全部ごみとなって捨てられてしまいます。

 

SOTOCHIKUは、それらが捨てられる前に、SOTOCHIKU素材として「寄付」していただくことによって、新しくつくられる空間の素材として活かしていきます。

 

あなたの人生の刻印は、あなたにとって価値があるだけでなく、みんなを豊かな気持ちにさせてくれる普遍的な力があります。

 

「あなたが生きた時間には価値がある」

 

 

映画 百円の恋

2014年。安藤サクラ

 

太った体の自堕落な生活から、引き締まった体のキレのある生活へ。

 

この映画の印象を一行で表すとこんなシンプルな感じだが、深いものが残されたように感じるのは、安藤サクラの存在によるものだろう。

 

現実に、一人の人間が驚くほどのギャップを表現しているだけに、勇気づけられる人間も多いのではないか。

 

 

 

コロナに関するメモ

下記はasahi.comの3月12日の記事『新型コロナは「撲滅すべき悪」なのか 人類の歴史に学べ』から転載。長崎大熱帯医学研究所教授の山本太郎氏のインタビュー記事。

 

 

・・・・・流行が終わるためには 


感染症が人間の社会で定着するには、農耕が本格的に始まって人口が増え、数十万人規模の都市が成立することが必要でした。

 

私たちは感染症を『撲滅するべき悪』という見方をしがちです。だけど、多くの感染症を抱えている文明と、そうではない文明を比べると前者の方がずっと強靱(きょうじん)だった。16世紀、ピサロ率いる200人足らずのスペイン人によって南米のインカ文明は滅ぼされた。新大陸の人々は、スペイン人が持ち込んだユーラシア大陸感染症への免疫を、まったく持っていなかったからです

 

一方でアフリカの植民地化が新大陸ほど一気に進まなかったのは、さまざまな風土病が障壁になったからです。近代西洋医学は植民地の感染症対策として発達した面が強い人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。

 

人類は天然痘を撲滅しましたが、それにより、人類が集団として持っていた天然痘への免疫も失われた。それが将来、天然痘やそれに似た未知の病原体に接した時に影響を与える可能性があります。

 

多くの感染症は人類の間に広がるにつれて、潜伏期間が長期化し、弱毒化する傾向があります。病原体のウイルスや細菌にとって人間は大切な宿主。宿主の死は自らの死を意味する。病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していくのです。感染症については撲滅よりも『共生』『共存』を目指す方が望ましいと信じます

 

感染が広がりつつある現時点では、徹底した感染防止策をとることで、病気の広がる速度を遅くできます。患者の急増を防ぐことで医療にかかる負荷を軽減し、より多くの患者を救えます

 

さらに言えば、病原体の弱毒化効果も期待できる。新たな宿主を見つけづらい状況では『宿主を大切にする』弱毒の病原体が有利になるからです。感染防止策は『ウイルスとの共生』に至るまでのコストを大きく引き下げます

 

集団内で一定以上の割合の人が免疫を獲得すれば流行は終わる。今、めざすべきことは、被害を最小限に抑えつつ、私たち人類が集団としての免疫を獲得することです

 

・・・・・社会にもたらす変化とは

 

当時の欧州ではペストで働き手が急減したことで、賃金が上昇し、農奴制の崩壊が加速。身分を超えた人材の登用も行われるようになりました。ペストに無力だった教会の権威は失われ、代わって国家の立場が強くなった。こうした変化はペストの流行がなくてもいずれ実現したでしょうが、その時期が大幅に早まった。新型コロナウイルスも同様に、歴史の流れを加速するかもしれません

 

今回の感染拡大が100年前に起きていれば、『今年は重症の風邪が多いな』という程度で、新型ウイルスの存在さえ気づかずに終わっていたかもしれない。だけど、現代では医学・疫学の発達によって感染の拡大がつぶさに追えるようになった以上、政治も社会も対応せざるを得ません

 

従来の感染症は多くの犠牲者を出すことで、望むと望まざるとに関わらず社会に変化を促したが、新型コロナウイルスは被害それ自体よりも『感染が広がっている』という情報自体が政治経済や日常生活に大きな影響を与えている。感染症と文明の関係で言えば、従来とは異なる、現代的変化と言えるかもしれません

 

・・・・・以上、抜粋(ほぼ全文ですが)

 

 

以上で述べられていることに、今回のコロナ問題の核心はほとんど書いてあるように思う。

 

強く生きるということは、ネガティブな相手とも共生できるということだ。相手が何であれ、撲滅を目的としてはいけない。

 

今回、貨幣経済がどのように影響を受けるか、ぼくには明確にわからないが、国際的な国力がカネでは測れない状況になっている姿を見ることは、ぼくらの世代にとっては初めてのことかもしれない。

 

命がカネに勝る、という世界の政治家たちの認識を垣間見る瞬間があるとすれば、未来に希望も湧いてくる。

 

ウィルスもこの世に生まれた出た限りは、その命を尊重すべきだ、という考えを持つことが必要なのかもしれない。もちろん、一方的に元気になってもらっては困る。なんとか人類の存続に影響が出ないように、一緒にやっていこう、と。

 

害虫に関しても、似たような視線を向けるとよいだろう。生活に実害を与える領域に入ってくれば闘うけれど、領域を侵さない限りは、お互いの生を尊重しよう、と。

 

共生、共存の思想とはつまり、こういうことなんだろう。これが世界の基本姿勢となれば、人間同士の関係も変わるはずだ。

 

「多様な『私』というものが保証されるのが、パブリックという空間」ならば、政治は今こそ多様な『私』を保証するときだ。

 

 

ZOOM

コロナ状況下でのプレゼンとして、初めてZOOMを使ってクライアントとの遠隔ミーティングを行った。

 

あらかじめお送りした資料を見ながら行った。音声が途中で聴こえにくくなるなど、ネット環境の不安定さによって多少の問題は生じたけれど、概ねお会いしてのミーティングと変わらない印象だった。

 

ネットゆえの多少の緊張はあったのかもしれないが、冗談も言えたし、今後慣れていけば問題はなくなっていくだろう。

 

今後、このプレゼン方法がむしろノーマルになっていくのかもしれない。

 

 

 

夜光のような輝き 2

scene7


ふりかえれば

通ってきた暗闇は無限な天体のように魅惑的であり

そのすぐ裏側に光を讃える

月は内部と外部を分ける境界

群衆の熱狂は暗闇のすぐ裏側にある

 


scene8


月の光の螺旋を上り

 


scene9


まばゆく白い光の中へ

 

 

scene10


光の世界は一瞬に過ぎないが

 

 

scene11


その記憶が歴史となって残る

 

 

scene12


・・・・・

 

また境界を越えて、光の世界から暗闇へ

気がつけば、また一人で長いトンネルを歩いている

 

これが最後かもしれない、という覚悟が

神にすら挑めというごとく、

いよいよ夜光のような輝きを増していく

 

 

夜光のような輝き 1

scene1


気がつけば、また一人で長いトンネルを歩いている

自分の限界を超えることだけを考えて、

暗闇の中、一点を見つめて歩き続ける

 


scene2


そうすれば、前方に上から微かな光が降り注ぐのが見えてくる

 


scene3


近づくと、その光が下方に深い陰をつくる

月の塊が自分を待つ

 


scene4


暗闇は続いている

月は低く浮いて、重くのしかかる

 


scene5


押しつぶされる恐怖と闘いながら、月の下を歩く

それでも前へ進めば、いつの間にか目は爛爛として

壮麗なる蛇の幾千万の鱗が月夜に照らされるように

全身から夜光のような輝きを放ち始める

その姿は、崇高であり、怪異でもあるという矛盾のために

人々に直視することを許さず、同時に目をそむけることを許さない

 


scene6


光の世界へ

地鳴りのような歓声が聴こえる

 

・・・・・

 

 

ランニング

コロナで家にいる人が増えて、外を走る人が増えている。

 

最近は、走る人に対しても、潜伏期間の人がすれ違いざまにうつしている可能性があるとして、マスクの着用が叫ばれている。

 

確かにそうだが、周囲に明らかに人がいなければ、マスクを着ける必要はない。そうであれば、すれ違うときに口を覆うハンカチを用意すれば十分ではないか?

 

もちろん、すれ違う相手としては安心感が欲しいわけなので、確実に飛沫が来ないことが保証されるべきだと言いたいのだろう。これが社会の面倒なところだ。

 

ぼくは走っても苦しくならないマスクを見つけたからよかったが、早速売り切れている。

 

https://item.rakuten.co.jp/funlifestore/org02991/

 

 

映画 愛のむきだし

2009年。園子温監督。

 

西島隆弘演じるユウだけが、なぜ新興宗教にはまらないでいられたか?

 

もちろん、ヨーコを助け出すという明確な目的があったからだろうが、そもそも目的とは微塵の隙も見せないほどに、常に確固として存在していられるのだろうか?

 

自分だったらどうだろう?残念ながら、それほど自信はない。

 

 

 

 

動きが止まってきた

世の中の動きが止まってきたのを実感している。

 

今のところ、国民は冷静に対応しているようにみえるが、いつまでそのようにいられるのだろうか?

 

政府はまだお金を配れていない。貯蓄のない人が多い中で、どうやってお金を手にするまで待つことができるのか?

 

周囲が心配だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モンキチ、見つかる

去年の3月31日に、千葉ではぐれてしまったサルのパペット、モンキチが見つかった。

 

1年以上が過ぎて見つかるなんて、奇跡的だ。

 

 

妻がなんとなくモンキチと同じ型のパペットを数か月ぶりにネットで探していたら、メルカリに千葉の出品者が出していて、すぐに購入した。

 

数えきれない画像の中から、見つけたのは陽向だ。

 

感動のあまり、陽向は号泣してしまった。

 

家族3人とも、大喜びだ。

 

拾ってくれた人がいて、子供がしばらく遊んで、そして、飽きてしまったのかもしれない。

 

 

 

陽向は、1歳の時からいつも一緒だったから、モンキチは家族の一員だった。

 

そして、寝る前のお話の時間に、ぼくの小学校時代の同級生として登場して以来、モンキチは陽向の「師」として、大事な存在になった。

 

「モンキチが見てるから頑張る」

 

そんな存在だったのだ。

 

 

 

そして、ぼくにとっては、朝、目が覚めると必ず横に座っていて、目が合って、静かに語りかけてくれた。

 

「大丈夫。がんばる。」

 

ぼくはそう心でつぶやいて、ベッドから這い出したものだ。

 

そんな朝を取り戻すことができる。

 

 

モンキチは、ぼくらにとって生きたぬいぐるみだ。

 

 

衣・食・住

衣・食・住が生活の基本と小さな頃から教わってきた。

 

コロナ後の世界を見据えようとすると、単純にこの3つが揃えば生きていける、という観点で自分たちの暮らしを考えてみてもいいかもしれない。

 

そのとき、おカネって、いったいどのくらい稼ぐ必要があるのだろうか?

 

まずは、衣。これは、今持っている服で大体生きていくのに十分だとすれば、今後特にお金は必要ない。生きる、という意味では、破れたら自分で縫うことくらいはできる。

 

次に、食。これは、きっと新しいことを始めなければならないときだ。日本の食料自給率は40%と言われているが、コロナによって海外からの輸入分が確保されるのかは、大丈夫だと言っている人もいるが、コロナ問題自体が予測されなかった事態としてあるのだから、何が起こるか分からない、という前提で動いた方がいいと思っている。

 

で、小さな畑を借りることにした。どのくらいの量をそれで賄うことができるか、実際に動いて知っていきたいと思う。

 

また、自然に生えている植物の中で食べられるものが分かるように。

 

20代で志していながら、ちっとも真剣にやってこなかったことを、これを機にしっかりやってみたい。

 

自給自足。それをイメージできるようになりたい。これができると、人間はずいぶん自由になれるんじゃないだろうか。

 

最後に、住。これも根本から考え直したい。仕事のために都心に事務所を借り、工場を借り、住まいを借りて支払ってきた家賃は、会社を興して以来2億円に近い。

 

他に方法はないのか?コロナ後も疫病の恐れは続くなら、郊外へ出るのはどうか?

 

ならば、土地を買って終の棲家を自分で建ててもよいかもしれない。

 

・・・と、書いているうちに愉しくなってきた。 

安全な場所

外を出歩く人が減って、人とすれ違う回数も一日に数えるほどに減ってきた。

 

道を選んで歩くことで、ほぼ人とすれ違わない一日を過ごすこともできるだろう。

 

 

安全のために、家にこもるか? それとも、外の風通しのよい場所にいるか?

 

どちらも決してきらいではない。