gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

教育のレベル

日本の教育レベルが下がっている、とはぼくらの世代以上であれば、だれもが感じていることだと思う。

 

なぜこのような事態になってしまったのか、よく分からないでいたが、現在の小学校の授業レベルを見れば、「これじゃ・・・」と思ってしまう人は多いだろう。

 

緊張感のある授業が成立するためには、今の授業は厳しさが足りない。それはあからさまだと思うけれど、もうみんなマヒしてしまっているのだろうか?

 

父兄にダラダラとした公開授業を見せる意味はなんだろう?

 

 

震災と精神科医

神戸の震災からすでに24年が経過したが、精神科医中井久夫の文章を読んで、あの地震がどのようなものであったかの認識を新たにした。

 

精神科医は、毎日、3万歩を歩き続け、たくさんの人に会い続けたらしい。特に、校長先生を訪ねることは重要だったそうだ。

 

仕事とプライベートの両方に襲いかかる天災に対処するには、それぞれが引き裂かれる思いがあっただろう。

 

ぼくは、その頃アメリカにいて、遠くから日本を眺めていた。これを読んで、初めて神戸の震災について認識した、といってもよいかもしれない。

 

 

主張

全てのプロジェクトを、クライアントと自分たち双方にとって価値のあるものにするためには、初対面での打合せが大事だ。

 

そこで、ぼくらのやるべきこと、やりたいこと、を主張するのがぼくの仕事だ。

 

002とともに、クライアントに合わせるのではなく、ぼくらのライフワークを正確に伝えることに徹する。

 

 

 

 

ミトコンドリアDNA

ミトコンドリアDNAを検査して、自分のルーツが分かった、という方のお話を聞いた。

 

先祖が、2万年前にバイカル湖近くの女性から生まれ、5千年前にカナディアンインディアンと日本に兄弟が分かれたことが分かった、という。

 

自分のDNAにまつわる、時空の壮大な旅。それを遡行することができるそうだ。

 

興味はあるといえばあるが、ぼくの生を根拠づけてくれはしないような気がする。

 

修業が足りないのかもしれない。

 

 

 

 

一人で遠出

ぼくらが忙しくて、日曜日にどこにも行けない日は、陽向は退屈だ。

 

今日は、とうとう一人で遠出。

 

電車を乗り継いで、お台場の水の科学館へ。

 

いろんな人に聞きまくって、なんとかたどり着いて、施設の中では受付のお姉さんにかわいがってもらい、結構楽しんで帰ってくる。

 

どんなときも、人に助けてもらいながら、目的を達成する。場合によっては、目的以上のことを達成する。

 

そんな得な性格を無条件に褒めてはいけないかもしれないが、やろうと思ってマネできることでもない。

 

ずっと彼は彼のままでいてほしい、と願う。

 

 

床に刻まれた時間

表参道のグリッドフレーム本社には10年以上経ったフローリングがある。

 

ぼくらの前の前に入ったリラクゼーションのテナントが残していったフローリングだ。当時の写真ではフローリングは茶色だが、その後、白く塗られ、さらに、設計事務所が入って、その上にカーペットを貼り、出ていくときにそれを剥がして糊が残った状態でぼくたちに引き渡された。

 

ぼくらはそれをそのまま6年に亘って使っているが、これまでの時間が刻まれた床の表情をとても気に入っているし、訪れた誰もがそれを好きだと言ってくださる。

 

ぼくらが空間に求めているSOTOCHIKUの素材の代表例でもある。

 

そして、錦糸町にあるグリッドフレームの工場には、床に鉄板が敷いてあるが、制作作業の溶接の火花が飛び散り、ペンキが飛び散った痕が、これまでの時間を刻んでいる。

 

これもまた、SOTOCHIKUの素材の代表例の一つで、今まで複数のプロジェクトに使用している。(美容室RealClothes、Pizzeria da Marcoなど)

 

床に刻まれた時間は、静かにぼくらに語りかけてくれる。ぼくらはそれに耳を澄まして、忘れていた何かを取り戻す。

 

 

 

大衆酒場

古くから親しまれてきた大衆酒場のよさを超えるような大衆酒場を新しいプロジェクトで体現することは簡単ではない。

 

まず、そのよさは、いわゆる”素敵な”内装空間によって達成されるものではない。長い間そこに蓄積した時間が、その場を特別なものにしている。長い時間によって完成したそこにいる人と空間が一体化した姿がその場のよさかもしれない。

 

だから、大事なものは、空間というより、時間である。やすらぎ、緊張、ルール、その他など店が持つ「人格」全体が重みを持って体験される時間だ。

 

それが、客を十分以上に満足させる。客はこの店に来ることができる幸せをかみしめる。

 

だが、「ただの大衆酒場です」と、店の方はいたって謙虚だ。

 

もちろん酒場だけではない。そんな店たちにぼくらは育てられてきた。

 

今後は、どのようにしてそんな店を新しくつくれるか、に挑戦していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

いじめの政治学 2

陽向が学校で遊んでいるグループでも、仲間外れが行われているようだ。

 

悪い方向へ行けば「孤立化」につながる。

 

子どもの環境は、いつも危うい中にある。自分のことを思い返しても、そうだった。

 

学校の中は無法地帯だ。

 

それが我が子であれ、他の子であれ、決して孤立化させないよう大人が洞察することが大事だ。

 

 

 

いじめの政治学 1

柄谷行人の書評を見て、精神医学者・中井久夫の「いじめの政治学」を読んだ。

 

書き留めたい文章がたくさんある。

 

「鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。」

 

 

 

「ルールに従って遊べるのは四年生からであるとすれば、その前年である三年生が非常に重要であるはずだ。実際、子供の絵画を見ていると、遠近法に従うようになるのは三年生から始まって五年生に完成する(思春期になってまた乱れる)。遠近法が描けるということは、これを頭の中の抽象空間に移せば、ものごとの軽重の順序、緊急か猶予があるか、優先順位が何かなどを整合的に表象できることである。ルールに従ってプレイできるということもその一部で、そういうものを頭の中の空間に遠近法的に配置できることを示すものである。」

 

「私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。他にもいろいろな分け方があるだろうと思うが、取りあえず、これに従って説明しよう。これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。」

 

「古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意」という人間のメカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。」

 

「時間的にも、加害者との関係は永久に続くように思える。たとえ、後二年で卒業すると頭ではわかっていても、その二年後は「永遠のまだその向こう」である。ここで、子どもの時間感覚が単位時間を大人よりも遥かに長く感じさせることはぜひ言っておかなければならない。」

 

読んでいて発見したこととして、ぼくには権力欲が欠落している、ということがある。けれど、同時に、他人を笑わせたいがために、だれかを一方的にからかい、結果として、その人を傷つけた経験があるかもしれない、ということも思い出した。相手は、いじめと感じていたかもしれない。

 

ここで取り上げられているいじめほど精巧なものではないが、最後に自戒のためにもう一つ抜き出す。

 

「もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分ける最も簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。」

 

 

 

 

言葉と記憶

父親が亡くなったとき、

ぼくは父を語る多くの言葉を持っていないことに気づいた。

 

他にも、何度も会ったことのある人が亡くなったときに、

その人を語る言葉を持っていないことの淋しさを

幾度も感じてきた。

 

そのことで、ぼくの中からその人たちが少しずつ消えていってしまうことを

どれだけ繰り返してきただろう。

 

もっとぼくが言葉を持っていれば、

その人を知る多くの人と共に、その人を心によみがえらせることもできただろう。

 

それを志す人間がいてもいいだろう。

 

 

 

素材を置く場所

時の記憶を刻み込んだ素材を集め、保管する場所を探し始めた。

いよいよプロジェクトの始まりだ。

 

ぼくは、素材を探して、その歴史を調べ、書き記すことに力を入れる。視覚的イメージだけに寄らず、まるで本を書くように、空間をつくっていく。

 

本は、開くことによって、初めて人に関係することができる。視覚的イメージだけに関係したいときは、本を開かなければいいのだ。

 

書き記されることなく口述で伝承されてきた民話を、文字に残す仕事のように。ぼくは、時を記憶した素材について、分かる限りの史実を記して、伝えていこう。