柄谷行人の書評を見て、精神医学者・中井久夫の「いじめの政治学」を読んだ。
書き留めたい文章がたくさんある。
「鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。」
「ルールに従って遊べるのは四年生からであるとすれば、その前年である三年生が非常に重要であるはずだ。実際、子供の絵画を見ていると、遠近法に従うようになるのは三年生から始まって五年生に完成する(思春期になってまた乱れる)。遠近法が描けるということは、これを頭の中の抽象空間に移せば、ものごとの軽重の順序、緊急か猶予があるか、優先順位が何かなどを整合的に表象できることである。ルールに従ってプレイできるということもその一部で、そういうものを頭の中の空間に遠近法的に配置できることを示すものである。」
「私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。他にもいろいろな分け方があるだろうと思うが、取りあえず、これに従って説明しよう。これは実は政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。」
「古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意」という人間のメカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。」
「時間的にも、加害者との関係は永久に続くように思える。たとえ、後二年で卒業すると頭ではわかっていても、その二年後は「永遠のまだその向こう」である。ここで、子どもの時間感覚が単位時間を大人よりも遥かに長く感じさせることはぜひ言っておかなければならない。」
読んでいて発見したこととして、ぼくには権力欲が欠落している、ということがある。けれど、同時に、他人を笑わせたいがために、だれかを一方的にからかい、結果として、その人を傷つけた経験があるかもしれない、ということも思い出した。相手は、いじめと感じていたかもしれない。
ここで取り上げられているいじめほど精巧なものではないが、最後に自戒のためにもう一つ抜き出す。
「もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分ける最も簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。」