gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

タテ割り社会アメリカ

もう30年ほど昔のことになるが、アメリカの地方都市バッファローで、日産イーゼル(日本ではシルビア)という車に乗っていた。カエル目玉とぼくは呼んでいたが、ヘッドライトを点けるとボンネットからカエルの目玉のように二つのライトが上がってくる。

 

スポーツカーというほどスピードが出るわけでもない、華奢な印象を与える中古車だったが、誰も気に留めない気取っていない感じがぼくにとっては好印象だった。

 

そのイーゼルが故障したときのこと。確か、タイヤがパンクし、左側の後部ウインカーが点かなくなる、ということが、同じ日に起こったのだ。

 

日本であれば、大抵のガソリンスタンドで二つの修理を同時にやってくれるけれど、アメリカではタイヤ修理と電気系統修理の場所が別々だった。

 

まず、近い方からと、タイヤ修理屋さんへ持ち込み、それから数キロ離れた電気系統修理屋さんへ。

 

厳密に言えば、電気系統修理屋さんへ持ち込むまでのドライブは、違法運転だ。さらに雪国バッファローで大雪が降る中でのライトの故障は結構危なくもある。

 

設備も1種類で済み、多能工を雇う必要がなく、法的責任も免れやすいタテ割りの方がビジネスには有利だが、二つ以上の故障を抱えた場合は、ユーザーにとっては煩わしい以上の何物でもない。

 

場合によっては、違う分野同士の関係によって複合的に故障が生じていることもあるだろう。こんな社会では、それを見つけ出す専門家がいなくなってしまう。

 

徹底して経済効率を追う風潮は、新自由主義という名前を持つ。

 

ここ30年で、アメリカ社会を追いかけてきた日本でも、ずいぶんタテ割りが進んだ。

 

違う分野同士の複合的な関係性を分かる人がいなくなってきている。

 

ぼくが1990年から愛用している番傘は、この30年で修理できる人がいなくなった。傘の骨に貼ってある油紙が破れたら、自分で張り替えるか捨てるしかない。

 

陽向の低血糖症や聴覚処理障害が併発させるさまざまな症状を正確に分析できる医者には、私の奥さんの2年に亘る執拗ともいえる調査にも関わらずまだ出会えていない。

 

日本の国力が落ちた、というのは、包括的な視点を持つ人がほとんどいなくなった、ということに尽きるのではないか。

 

それでもアメリカでは、自分が工具を使って家を建てる人が多かった。今もきっとそうだろう。

 

ユーザー個人の能力が、タテ割り社会をカバーしているといっていいのではないか。

 

だが、日本では今でもそんな人は多くない。そのあたりに国力の差が広がる一方である理由があるのかもしれない。