gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

日本選手への応援

今回の複雑な状況下のオリンピックで、日本選手の応援に熱を上げる自分に対し、自制をしてきた人も多いはずだ。もちろん、ぼくもその一人だ。

 

複雑な思いの中、考えたのは次のようなことだ。

 

まずは、人生におけるスポーツの応援自体の意味ってなんだろう?

 

応援するときに感じる高揚感は、そのまま幸福感と呼んでもいいものだろう。みんなで同じものを応援する一体感は、瞬間的にはプレーする選手の感じる幸福感に迫るくらいに大きいものかもしれない。

 

だが、それは健康的なものなんだろうか。戦時中に、日本国民がある作戦の勝利の知らせに沸いた瞬間と何が異なるのか?

 

もし、ぼくたちが国民としてかつての戦争を乗り越えるために必要なことは、一体となって自国の応援をする、という幸福感を捨てることじゃないだろうか?

 

日本のメディアは、日本と他国を等価に扱って、レベルの高い技や体の動きの美しさと、そこへたどり着いた選手たちの辿ってきた人生を伝える。日本VSアメリカの試合で、アメリカを応援する日本人が半分くらいいたっていいじゃないか。

 

そうなったら、オリンピックの意義も変わるだろう。メダルの数はもう、話題に上らない。オリンピックというイベント自体も意味が変わる。コロナが流行っていれば、最高の状況で選手たちが戦える条件が揃うまで待つ。フェアであることを第一に競技が行われる。ドーピングする人もいなくなる。

 

ただ、そのためには訓練が必要になる。選手たちに、ではない。ぼくたち、応援する側に、だ。もちろん、ぼく自身も含めて。