ぼくはものづくりを始めてから、他動詞の「する」と自動詞の「なる」を明確に分けてきた。僕がつくったとされているモノのこの部分はそのように「した」結果で、この部分は「なった」結果だ、と。
そして、「なった」ものが多いモノほど、よりよいモノだという自分なりの結論を得た。
それと接するときに1人1人が違った関係性をつくれるからだ。
他動詞には人間の意志が入り込み、自動詞には人間の意志の外の何かが作用する。
誰かの意志によって統率された空間は、少なくとも万人を幸せにはしない。
ぼくはそのような空間が嫌いだ。自分がコントロールされているのを強く感じるからだ。
子供は誰かに強制されるのを嫌う。ぼくはそこは子供のままなのだろう。
日本語には、たくさんの慣用句がある。陽向の勉強のために、トイレの壁に慣用句のプリントが貼ってある。
先にも書いたが「腑に落ちる」の「落ちる」は自動詞で、分かることは自分ではコントロールできない。突然、ポンと分かるようになる。
「頭を冷やす」は他動詞で、冷静になることは自分でコントロールできることだ。
人間が意志を持ってやれることは何か、を慣用句は教えてくれる。
そして、日本語がいかに優れた言語であるかを知ることができる。