リアルクローズ四元さんのお話をYouTubeで紹介している中で、四元さんがカットのトレーニングに通ったパリのトレーニング室が工場みたいな場所だったことについて話されている。
美容室は、最高のヘアスタイルをつくるための空間であることが第一義で、お客様をもてなすための空間であることよりも重要だ、と感じた四元さんがいた。
そのためには、アーティストのアトリエのように、絵の具が散らかっていたり、壁が汚れたりしている空間で、自分自身も汚れてもいい服を着て、徹底的にヘアスタイルづくりに集中できる空間をつくりたい。
いや、ヘアスタイルをつくるには機能だけあればよいが、そこにニューヨークの質の高い落書きなんかあったら、きっとその創造性に刺激を受けて、さらによい仕事ができるだろう、と。
もし、そのさらによい仕事をするための、ニューヨークの質の高い落書きがいらないと言われたら、アーティストの存在意義はなくなる。
四元さんは、ぼくらのHPのオリジナルコンセプト「汚しうる美」を読んで、ぼくらグリッドフレームをアーティストと考え、「ニューヨークの質の高い落書き」に匹敵する何かをぼくらがつくる空間に期待されたのだと思う。
それを別の言葉で表せば「精神性」だろう。一般にデザインと呼ばれるものには、必ずしも精神性が含まれない。ぼくらは、その精神性がどこから立ち現れるかに興味がある。逆に言えば、それ以外には興味がない。
「存在の耐えられない軽さ」(原作:ミラン・クンデラ)という映画のタイトルを思い出した。精神性をまとわないモノたちに囲まれて、ぼくらは何のために息をするのか。
文学が読まれなくなったというが、それは文学=精神性と捉えることができるだろうか。ならば同時に、空間=精神性もほとんど失われようとしてきただろう。
空間に漂う精神性はそこにいる人の背中を押すことができるだろうか。大事なことは癒すことではなく、背中を押すことではないか?
ちょっと話が逸れるが・・・
息を吐くことと息を吸うことは、主体的に見れば、息を吐くことの方が重要だとぼくは考えている。マラソンが好きな人は同意してくれるかもしれない。走るときに、吐く息を意識すれば、体は勝手に上手に吸ってくれる。逆に、吸う息を意識すると、上手には吐いてくれない。
ほとんどの楽器は吐いて音を出す。ほとんどの歌唱は吐いて声を出す。柔道で相手を投げるときには声を出す。ぼくは、呼吸によって体の熱を移動することができるが、息を吐くときにだけ動かすことができる。
つまり、人間がコントロールできるのは息を吐くことの方だということではないか?
同じように、人の背中を押す、という動かす行為は意志によって可能だが、本質的に癒すことは意志ではできない。癒しを目的としてなされていることは、すべて表面上のことに過ぎないのではないか?
空間で人を癒すことなど、本当はできない。もし、できているとするならば、それは一般的な、いわゆる「癒し」に過ぎない。そこには精神性のカケラもない。「存在の耐えられない軽さ」があるだけだ。