鋸南町で撮ってきたビデオや写真の風景を見ながら、もしこの町で暮らすとしたら、という想定で、この風景をどのように変えていきたいか、について考えている。
ぼくの感覚では、1960年代までの日本の風景は、きっと全国的に美しかっただろうと思う。高度成長期に新建材が使われ始め、美しく経年変化しない風景に囲まれるようになり、人間のつくるモノの醜悪さが浮き彫りになった。
人間のつくるモノによる醜悪な風景は、その土地に生きる人間たちの魅力まで減退させてしまう。
これは、つくり手の問題以前に、新建材という素材の問題だとぼくは思う。美しく朽ちていくことのない素材は、建物単体としてみるときには悟られることが少ないが、周囲を含めた風景としては、新しいときからすでに醜い。都会はその醜さを更新していくことができるから、まだギリギリで悟られずに時間が経過しているが、地方ではその醜さは自然の美しさとのコントラストを年々強めていく。
しかし、こうやって新建材を否定するのは簡単だが、それを生んだのもぼくら日本人である。経年変化をしない新建材が今後も使われ続ける理由があるならば、それらとの共存の方法を考えなければならない。それは、ぼくらの世代が取り組まねばならない大きな課題のひとつだ。