gridframe001の日記

とりかえのきかない世界を生きるために

2021の指針 1

暮れから新年にかけて一週間、家族3人で車に泊まりながらSOTOCHIKU探し1500キロの旅に行ってきた。

 

今回は東京から西へ進み、浜松・天竜川沿岸、桑名・揖斐・長良川沿岸、伊勢・五十鈴川・二見浦、熊野古道、高松、豊島、徳島・吉野川沿岸、名古屋、箱根湯本というルートをとった。

 

各地の風景を見ながら、さまざまな施設・食堂・銭湯を巡っているうちに、今までぼんやりとしていた考えがまとまってきたように思う。おかげで2020年のGRIDFRAMEがつくる空間の指針を得ることができた。

 

 

ぼくは、人間は好む好まぬに関わらず、過ごしているうちに、そこにいる空間と一体化してしまうと思っている。もちろん、好んでその空間を選ぶこともあるが、たいていの人は意識することなくその空間を訪れて、そこで過ごしているうちにだんだん空間と同化して来るのだと思う。

 

ぼくが学生の頃に発展途上国を選んで旅したのは、今思い返すと、ぼく自身が発展途上国的でありたい、と思ったからだと理解できる。

 

先進国、つまり現代文明が進んでいる国で新しくつくられる空間は、大量生産された新建材に覆われている。どの場所にも、どの時代でも、同じような快適空間の中にいる。そのような空間の中では、秀でた能力が分かりやすく可視化されていないと、周囲から尊重されることがない。

 

だから能力を高めて一日も早くそれが可視化されるように走り続けるか、もしくは、競争をあきらめて自らが大量生産品としてその中にうずもれてしまうか、この二通りしかないように思える。

 

残念ながら、ぼくにはどちらの姿も「美しくない」ように思えた。いつまでも他人とあくせく競争し続けたくもないし、だからといって敷かれたレールから降りたくもない。数十年前に感じたこのジレンマは少しずつ変化してきたとしても、未だにこの社会の中核をなしているように見える。

 

ぼくは、ぼくの中で価値観の軸を他へ変える必要を感じるようになった。だから、発展途上国を目指したのだ。

 

その頃の発展途上国には、まだ世界経済の中に取り込まれているとはいえず、大量生産品がほとんどなかった。手づくりのモノが多く、ひとつひとつのモノや空間が出来不出来も含めてバラバラであることは、人間も同様に多様であってよいという懐の広さを感じさせてくれた。

 

ぼくは、発展途上国にいると自由になれる、と感じた。それは、日本にいると感じられない不思議な感覚だった。

 

(つづく)